浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

親鸞聖人の生涯(18)

東国への移住2

 親鸞(しんらん)聖人は1214年、42歳のとき、妻子(恵信尼(えしんに)さま33歳、信蓮房(しんれんぼう)さま4歳)と共に越後を後にして東国(関東)に向かわれました。何時ものことながら、このことについても何の史実もなく、何処をどのように旅をせられたのかは今でも全く分かっておりません。しかし越後への流罪の旅と同じように、信濃(しなの)国(現 長野県)の善光寺近辺には聖人にまつわる伝承が多く残っております。従って今回も越後から最初は善光寺を目指されたのではないかと推測しております。

 越後を南下した聖人の一行は先ず現在の長野県飯山市に出られたようです。腰をかけて休まれた石を礎石にして小さなお堂が建てられ、そのそばに(えのき)があったので「榎御坊(えのきごぼう)」と呼ばれるご旧跡が飯山市旭藤ノ木にあります。

 さらに南下して「牛にひかれて善光寺まいり」で有名な善光寺に向かわれたと思われます。この善光寺の境内には第5回(1995年9月15日)にも書きましたように、今も多くの聖人についての伝承が残されております。先ず善光寺の山門をくぐり金堂との中ほど左側に聖人が善光寺に参詣の度に、若松の枝をご本尊に供えられたという故事に基づき、松の小枝を持った聖人像があります。また金堂に入った所の大花瓶にも大きな(高さ5m位)松の枝が活けてあり、寺ではこれを「親鸞松」と名づけ、毎月1回取り換えるとのことです。そのほか、聖人の爪で掘られたという石仏の阿弥陀如来像や、院坊(いんぼう)常照坊(じょうしょうぼう)には笹を並べてお書きになったと言われる「笹文字御名号(ささもじおみょうごう)」などの多くの伝承があります。

 聖人がこのように善光寺に行かれたとすれば、それは何故かという疑問が生じます。当時は越後や東国方面では善光寺信仰が盛んで「東大寺聖(とうだいじひじり)」や「高野聖(こうやひじり)」と共に、「善光寺聖(ぜんこうじひじり)」も盛んに活躍していたようであります。この「善光寺勧進聖(かんじんひじり)」たちは、本尊の善光寺式阿弥陀三尊像の金銅製の模刻(もこく)像を納めた(おい)を背負って各地を行脚(あんぎゃ)し、純金製で「生身(しょうじん)の阿弥陀」といわれる善光寺本尊の霊験を語って聞かせ、念仏をすすめて像を拝ませ、浄財の喜捨を求めたと言われています。

 史料の上では聖人がこの勧進聖であったとの事実は見出されませんが、伝えられている行実の中には、それを思わせるものがいくつかあります。例えば本願寺第3代覚如(かくにょ)上人作の『御伝鈔(ごでんしょう)』上巻第8段には、聖人70歳の時、肖像を描かせるために定禅法橋という絵師を呼びよせたところ、定禅は聖人の顔を見るなり「昨夜夢に見た善光寺本願御房という人にそっくりだ」といって驚いたという話が収録されているのがその1つであります。この話は聖人が過去に善光寺の募財をする勧進聖を統括する「善光寺の本願御房」と何らかの関係を持った時期があったことを暗に示していると考えられます。

 又、松野純孝師は、現存する聖人の肖像画「安城御影(あんじょうのごえい)」(重要文化財)は聖人83歳の時、朝円という画工によって描かれた寿像であり、それには(すそ)茜根裏(あかねうら)の下着が見えること、敷皮は狸皮、草履は猫皮、杖は猫皮を巻いた鹿杖(かせつえ)であること、茜根裏の下着は俗人の風俗であり、しかも皮づくしの品々を用いていることに寺院の僧侶にはない体臭を感じ、特に皮草履や鹿杖が旅の道具であることから、非僧非俗を宣言した聖人が、善光寺勧進聖であったかどうかは別として、念仏の布教をしながら旅の生活をした、いわゆる「(ひじり)」であったことの名残りと見たのであります。