(1)出生から幼少時代
親鸞聖人は1173年5月21日(旧暦 承安3年4月1日)に京都伏見の日野で日野有範さまの子として誕生され、松若丸と名付けられました。
住職が日ごろ思っていること、皆さまにお話したいことを徒然なるままに(?)語っていくページです。
大野正英は、2009年11月5日をもちまして、住職を退任いたしました。
住職退任のご挨拶
親鸞聖人は1173年5月21日(旧暦 承安3年4月1日)に京都伏見の日野で日野有範さまの子として誕生され、松若丸と名付けられました。
前回は、親鸞聖人が9歳の時、出家得度して名を幼名の松若丸から範宴と改め、僧となられたことを書きましたが、今回はもう少し詳しく書きたいと思います。
親鸞聖人が何歳のころ比叡山に上ったか歴史上は不明です。本願寺の第3代覚如上人は9歳の頃と伝記に書いてありますが、はっきりした証拠もありません。
親鸞聖人は29歳の春のころ、比叡山での20年にわたる長い学修を捨て、六角堂に向かわれました。
六角堂で観音菩薩の夢のお告げをを聞かれた親鸞聖人は、東山の吉水に法然聖人を訪ねて行かれました。
親鸞聖人は、100日の間、雨の日も炎天の日も、毎日法然聖人の元にお通いになって、次々に起こる不審を問いただし、得心のゆくまで吉水に通い続けられました。
「よき人」に遇あうことが出来た人は幸福であります。親鸞聖人は法然聖人にめぐり遇ってはじめて如来を信じ、念仏の道に入り如来と共に生きました。
承元の法難によって、親鸞聖人は藤井善信という罪名を付けられて新潟に流罪にされました。
親鸞聖人が流罪の地である新潟までどのような道を通られたのか、昔からの伝説や言い伝えを繋ぎ合わせてたどってみたいと思います。
琵琶湖北岸の港、海津を出発されて流罪地に向かう親鸞聖人の一行は、これより滋賀を後にして北陸道を福井に向けて進まれたと思われます。
滋賀と福井の国境付近にある愛発山と木ノ芽峠を越えると、後は平坦な平野部を通る北陸街道を親鸞聖人の一行は進まれたと思われます。
現在でも各地には伝説が数多く残されていることから、新潟の流罪地に向かわれた親鸞聖人の一行は海岸線に近い北陸道を通られたと推測されます。
富山から新潟の流罪地にかけての海岸線に数多くの聖跡や伝承が残されていることを考えると、聖人の一行は多分、海岸に近い道を通られたことでしょう。
京都を後にして13日目、親鸞聖人は流人の長旅を終え、やっとの思いで流罪の地を目の前にした居多ヶ浜に立たれました。
妻帯した生活での求道が親鸞聖人の宗教のトレードマークであるにもかかわらず、結婚については一言も触れることがありませんでした。
親鸞聖人にとって、新潟での7年間は厳しい自然の中で苦労の多い日々であったことは間違いありません。
親鸞聖人は42歳になると、妻子と共に、7年間過ごした新潟を後に、長野を経て茨城に移られました。
長野の善光寺近辺には親鸞聖人にまつわる伝承が多く残っているため、新潟から最初は善光寺を目指されたのではないかと推測しております。
善光寺を後にされた親鸞聖人の一行は、多分確氷峠を越えて東山道を東進されて、利根川に沿って下って来た所の佐貫の地に到着されたと思われます。
親鸞聖人が関東に滞在された約20年間は、鎌倉幕府を瓦解に追い込もうとした後鳥羽上皇らと、北条義時との軋轢が深まるばかりでありました。
親鸞聖人は関東での約20年を主に茨城の稲田草庵を拠点として活動を展開されたのでありますが、すぐさま広がったとは思えないのであります。
親鸞聖人の口から教えを受けた門弟はそれぞれに道場を作り、自らその主となって多数の信者を集め、何々の門徒と称しました。
親鸞聖人は自分が法然聖人から伝えられた専修念仏の教えを、何とかして後世の人びとにも伝えたかったのではないでしょうか。
親鸞聖人は自分が法然聖人から伝えられた専修念仏の教えを、何とかして後世の人びとにも伝えたかったのではないでしょうか。
親鸞聖人は念仏を称えながら、1263年1月16日(旧暦 弘長2年11月28日)にご往生されました。
親鸞聖人滅後10年にして建立された大谷廟堂と称する本願寺の前身は、狭い土地に建てられた小堂にすぎませんでした。
覚如上人(本願寺第3代宗主)は大谷廟堂の寺院化を目指され、専修寺から変更して本願寺とされました。
善如上人(本願寺第4代宗主)は、聖教の書写、下付、および本尊の復・作製などの活動を積極的に行われました。
綽如上人(本願寺第5代宗主)が父・善如上人の後を受けて法灯を継職されたのは、40歳の時でありました。
綽如上人が亡くなると、第2子の巧如上人(本願寺第6代宗主)が18歳で継職され、逝去される65歳まで在職されました。
存如上人(本願寺第7代宗主)は、北陸地方の教化に専念していた父の巧如上人に代わって寺務を取っていたようであります。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)は、本願寺教団をはじめて真宗教団の中心的地位にまで押し上げた人であります。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)は、1415年2月25日(新暦4月13日)、本願寺の一隅に元気のよい産声をあげて生まれました。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)は、幼少より存如上人の正妻である継母・如円のもとにおいて育てられることとなりました。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)は、内外ともに厳しい環境の中で、不遇の幼少期を過ごさなければなりませんでした。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)は、5人の内室を迎えられ、13男14女に恵まれました。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)43歳の6月、父・存如上人が62歳の生涯をとじられました。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)は、北陸地方の教化の旅に出られ、更に関東の親鸞聖人の遺跡を回られています。
門主継職後の蓮如上人(本願寺第8代宗主)は、聖教の授与に加えて、新しくお名号や『御文章』の授与を始められました。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)は比叡山衆徒により破却された坊舎にも、東山大谷の地にも未練はありませんでした。
1471年7月、蓮如上人(本願寺第8代宗主)は福井の吉崎に御坊を建立して本拠の地としました。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)が建立した吉崎御坊を中心として一大宗教都市が出現したのであります。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)が建立した吉崎御坊を中心として一大宗教都市が出現したのであります。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)が建立した吉崎御坊を中心として一大宗教都市が出現したのであります。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)は、吉崎を去って大阪に建てられた坊舎を、畿内を教化する足場とされました。
蓮如上人(本願寺第8代宗主)の本願寺再興の願いは、ひと時も念頭を離れなかったのであります。
山科本願寺の建立を始めた頃の蓮如上人(本願寺第8代宗主)は43歳で、門主になってから20年を経過していました。
インドにも中国にもなく、日本で始められた仏教行事の代表的なものに、春秋2回のお彼岸があります。
特別展「大阪の町と本願寺」-蓮如上人500回御遠忌・「おおさか」誕生500年記念-が開催中です。
蓮如上人が本願寺を建立した地である大阪城内、天守閣前の市立博物館で展覧会が催されます。
報恩講をお勤めするのは、お念仏のみ教えを喜び、味わせていただくと共に、親鸞聖人のご遺徳のほどをしのぶためです。
近隣寺院のご住職達12名と共に、長野の善光寺と、その付近に研修旅行に行ってきました。
親鸞聖人は、1173年5月21日にお生まれになりました。
蓮如上人は中興の祖といわれるように、宗祖親鸞聖人と並んで、浄土真宗にとって大切なお方であると共に、大阪人にとっても恩人であります。
ご門徒のお宅での月忌詣りの時にいつも感じることを少し書いてみたいと思います。
正宣寺もご門徒の皆様のご協力を頂き、新築再建をして、早くも5年の歳月が経過いたしました。あらためてお礼を申し上げます。