浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

親鸞聖人の生涯(9)

流罪2

 1207年の春、親鸞(しんらん)聖人(35歳)は藤井善信(よしざね)の罪名のもと、約2週間の日数をかけて越後(えちご)国(現 新潟県上越市直江津付近)に流刑せられることになりました。それは800年も昔のことであり、聖人がどのようにして、またどのようなコースで護送されて越後に到着したのか、そのことについての資料は全くありません。従って、どのような道を通られたかは今も明らかにされておりませんが、『親鸞慕情』を参考にして、昔からの伝説や言い伝えを繋ぎ合わせて、その道程をたどってみたいと思います。

 先ず、どのようにして旅立たれたかと言えば、今の裁判官と警察官を兼ねたような職務の検非違使(けびいし)と役人に囲まれてお立ちになり質素な輿(こし)に乗られたり、歩かれたりされたようであります。又最初の役人たちが最後の流罪地まで護送するのではなくて、それぞれの国の役所である国府で引き継いで行ったようであります。従って京都を出発して最初の引き継ぎ地は、現在の石山寺の近くの近江(おうみ)国府であったと思われます。そこから北陸路への主要交通路である、琵琶湖(びわこ)の西街道の北上説もありますが、多分、当時の近江国(現 滋賀県)の玄関口だった浜大津あたりの港から小さな船で湖上を北上されたことでありましょう。

 聖人が渡られた時の湖面には、その南西にそびえる比叡山(ひえいざん)から「念仏停止(ちょうじ)」の嵐が今も吹き荒れていました。それは比叡おろしや比良おろしの季節風とは比較にならないほど、お念仏に生きる人たちにとっては厳しく、そして、あまりにももの悲しいものでありました。聖人は小舟の上で、かって20年間にわたり勉学に励まれた、懐かしい比叡山を見上げられてのご心境は如何ばかりであったでしょうか。

 現在の近江八幡市の沖合いに浮かぶ琵琶湖最大の島である沖島に伝わる記録によれば

祖師親鸞聖人、越後御流罪の(みぎり)、大津打出浜より御船を召したが、風強くして此の島へより給い、十字の御名号を御染筆あらせられ

とあるとのことであります。

 島で一夜を明かされた聖人は、翌日再び小舟で湖上を北上され、海津(現 滋賀県高島市マキノ町)に着かれました。海津とは古くから北陸への湖上交通の要所として栄え、昔の書物にもその地名は再三出ておりますが、今は桜並木が続き、春は咲き誇る桜が湖面に映える観桜の名所とのことであります。