親鸞聖人の生涯(8)
流罪1
前回に述べた承元の法難。あれは厳しい弾圧でありました。
法然聖人の門弟4人が死罪となり、さらに法然聖人その人をはじめ、6人の門弟が流罪となっています。念仏者に対する処罰としては異常に厳しいものでありました。この法難によって親鸞聖人は藤井善信という罪名を付けられて越後国に、また法然聖人は藤井元彦という罪名を付けられて、土佐国(実際は讃岐国)に流罪にされました。前回にあげた親鸞聖人の『教行信証』中に
主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨を結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師(法然聖人)ならびに門徒数輩、罪科を考へず、みだりがはしく(無法にも)死罪に坐す。あるいは僧の儀を改め姓名を賜ひて遠流に処す。予はその一つなり。しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。
とあります。この文を読む時、そこに憤りと言う他は無いような、"みだりがはしく"と批判せずにはおられないような、激しく動く感情が流れていることが強く感じられるのであります。
当時、出家した僧を罪するときは、まず還俗させて一世俗人として処罰するのが決まりでした。言うまでもなく、出家すなわち世俗の外にある人間を、世俗の法で罰することは出来ないと考えられていたからです。従って親鸞聖人は、いわば国家の名において「すでに僧にあらず」と宣告されたのであります。僧とは出家した仏教者を言い、僧は当時の日本の法律である律令の僧尼令によって国家の統制を受けていました。しかし法然聖人の教えに帰依した純粋な念仏者になっていた親鸞聖人にとっては、そのような外からの僧の規定などは問題ではなく、法然聖人の弟子になることによって「仏弟子」とされたのだという、高らかな気概と謝念とを持つまでに成長していました。
だから国家から「すでに僧にあらず」と宣告されたけれども、そんなことは親鸞聖人の内面に確立していた仏弟子の自覚を少しも傷つけるものではありません。国家により僧にされたり、その資格を奪われたりするような、そのような僧の身分など何の意味もありません。そのような僧のあり方などは放棄して、再び僧と呼ばれる者にはならないでしょう。
この決意を親鸞聖人は「すでに僧にあらず俗にあらず」と表明し、だからこそ「禿」とあえて名のったのであります。いわば非僧の仏弟子という意味の禿、国家が与えた罪名である藤井善信に対して、親鸞聖人はあえてこの禿の名のりをもって自分の姓とし、流罪の地に赴いたのであります。