親鸞聖人の生涯(7)
吉水時代2
「よき人」に遇うことが出来た人は幸福であります。親鸞聖人は法然聖人にめぐり遇ってはじめて如来を信じ、念仏の道に入り如来と共に生きました。何ものにもくじけない新しい人生に向かうことが出来たのであります。
万事につけて熱心であった親鸞聖人は、あらゆる面で目を見張るような成長を遂げていきました。その親鸞聖人に法然聖人もまた大きな信頼と期待を寄せておりました。そして生きている間は公開をはばかって、380有余人の門弟の中のごく少数の者だけに許していた、その主著である『選択本願念仏集』の書写と、ご自分の肖像を画くことを33歳の親鸞聖人に許しました。言うまでもなく「真宗興隆」という、仏教者・法然聖人の願いを、どうか自分の願いとして受け継いでほしい、と言う期待を託してであります。この書き写すことを許されたと共に、その書写本に師・法然聖人の署名まで貰ったことは親鸞聖人にとって大きな栄誉であり感激でありました。ご自身のことは殆ど書き残していない親鸞聖人が、この書写の事と次の流罪の事について、その主著である『教行信証』の最後の所に書き残しておられます。
90歳で命終わるまでの親鸞聖人のそれからの60年の人生は、ひとえに師と仰ぐ法然聖人の、この期待にこたえようとの高い志に立って、力を尽くして生きた歩みでありました。
「よき人」にめぐり遇い平穏だった親鸞聖人の生活も長くは続きませんでした。聖人35歳の頃に、法然聖人の「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」を旗印とする新興仏教の隆盛をねたんで、既成仏教である比叡の延暦寺、奈良の興福寺等の大教団によって、法然聖人の教団は危険思想として圧迫されるようになりました。延暦寺と興福寺の大衆による2度にわたる天台座主ならびに朝廷への強訴と、法然聖人の門弟の一部に専修念仏に名を借って風俗を乱す者がいた事などが理由となって、ついに国家の名によって、その仏教運動は禁止されました。親鸞聖人35歳の時に起こった念仏者4人の死刑と、法然聖人・親鸞聖人ら8人の流罪、これがいわゆる承元の法難であります。これによって法然聖人は四国へ、親鸞聖人は越後へ流罪となり、2人の師弟はついに再び相会うことはなかったのであります。
親鸞聖人は先程の『教行信証』に
主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨を結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師(法然聖人)ならびに門徒数輩、罪科を考へず、みだりがはしく(無法にも)死罪に坐す。あるいは僧の儀を改め姓名を賜ひて遠流に処す。予はその一つなり。しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。
と約25年前の若かりし時の出来事を、つい昨日の事のように激しい調子で悲しみと怒りを込めて述べておられます。
ちなみに、上に引用した"主上臣下、法に背き義に違し"等の箇所は、 先の第二次世界大戦中は軍部の命令によって伏せ字として読むことを禁じられていました。