親鸞聖人の生涯(6)
吉水時代1
親鸞聖人は六角堂での95日の参籠の後、吉水の法然聖人を訪ねられたのでありますが、この法然聖人と親鸞聖人との出会いこそが、親鸞聖人の人生を決定づけ、また真宗の教えに重要な意味を持ったのであります。吉水の草庵で法然聖人にお会いしてから親鸞聖人は、さらにまた100日の間、雨の日も炎天の日も、毎日法然聖人の元にお通いになって、次々に起こる不審を問いただし、得心のゆくまで吉水に通い続けられました。そして親鸞聖人は法然聖人から「弥陀の本願は、もとより凡夫を救うためにおこされたものであるから、信じてみ名を称えるばかりである」と聞かされたのであります。親鸞聖人は簡明な念仏の教えを、大きな驚きをもって心に受け止められたことでありましょう。そして心の闇に大きな光を点ぜられたのであります。
その後の法然聖人に対する親鸞聖人の傾倒ぶりは、親鸞聖人の直弟子の唯円が著したとされる『歎異抄』の中に親鸞聖人の言葉として
たとひ法然聖人にすかされ(だまされ)まゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに(決して)後悔すべからず候ふ。
という有名な言葉があります。それほどまでに法然聖人に傾倒心酔されたのであります。
このようにして法然聖人の門弟となり、名を範宴から善信房綽空と改められた親鸞聖人は、29歳から35歳までの間、さらに教えの奥義を極めようと、たゆまぬ努力をつづけ、門弟の中でも次第に頭角を現されるようになりました。そのころ書き写されたものと思われる『観無量寿経集註』『阿弥陀経集註』は、親鸞聖人の青年時代の筆跡をとどめる貴重なもので、『観無量寿経』と『阿弥陀経』の本文をたくましい筆致で写し、その行間や上下の空白に、関係のあるいろいろの仏典から参考になる言葉を引いて、ぎっしり書き入れてありますが、いかに熱意をもやして勉学にいそしまれたかがしのばれます。
本筋から離れますが、私のような凡人には親鸞聖人が比叡山を下りてからの衣食住などの生活がどのようにされていたのか気になって仕方がありません。親鸞聖人に関する沢山の歴史書にも、その間の事情の説明は全くされていません。比叡の山では堂僧という身分で最低でも衣食住は保証されていましたが、山を下りてからはそれもありません。親戚とて貧乏公卿の日野家では、その援助も考えられません。そこで私は親鸞聖人が京都の町を托鉢して、米や塩を乞うて歩いて生計を立てたのではないかと思っております。皆様はどのようにお考えになるでしょうか。