親鸞聖人の生涯(5)
六角堂から吉水へ
親鸞聖人は比叡山で念仏を修していたと言っても、それはあくまでも自分の能力を頼りにして修行し、この世でさとりを得ようとする自力の修行ばかりでした。
六角堂にお籠りになり、後世のたすかるよう祈念しておられた親鸞聖人は、長い参籠もようやく終わろうとする95日目の明け方、夢のように観音菩薩が語り告げられる声を聞いたのであります。当時の人びとは、聖徳太子は観音菩薩が人の姿を借りて現れたものと信じて疑いませんでした。だから参籠の95日目の夜明けがたち、ふと微睡みました。その中に観音菩薩の語りかけを夢のように聞いたのも、考えてみれば極めて自然なことでありましょう。
ちなみに夢の言葉とは、前回にふれた親鸞聖人の妻・恵信尼さまの手紙にはっきりと書き添えてありました。しかし大切なその部分は今は無くなって、それがどういう言葉であったかは残念ながらわかりません。しかし本願寺第3代覚如上人は『御伝鈔』の中で次のように述べておられます。
「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」(行者、宿報にてたとい女犯すとも、われ玉女の身となりて犯せられん。一生のあひだ、よく荘厳して臨終に引導して極楽に生ぜしめん)
このように告げた観音菩薩はさらに
「これはこれわが誓願なり。善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」(これはわが誓願である。あなたは、この誓願のこころを、一切の人びとに聞かせなさい)
と語り告げたのを聞いて親鸞聖人は夢から覚めたと述べておられます。
つまり聖人は、この観音菩薩の夢のお告げから、これまで悶え続けてきた問題に、ひとつの示唆を感じられたのでありましょう。
聖人の参籠より40年ばかり前、同じ比叡山で法然聖人が同じ疲労感の中で悲嘆せられた孤独の道を、今親鸞聖人もたどってきたのであります。
あたかもその頃、京都の吉水では、その法然聖人が後世の問題を解決する道として、今までの仏教とは全く異なった専修念仏を説いておられました。親鸞聖人は、この夢告は法然聖人を訪ねて行けという勧めではないのかと受け取り、夢告の声に励まされ、夜が明けるとすぐに六角堂を後にして、東山の吉水に法然聖人を訪ねて行かれたのであります。