浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

親鸞聖人の生涯(4)

比叡山から六角堂へ

 前回は親鸞(しんらん)聖人が比叡山(ひえいざん)堂僧(どうそう)をしておられたことを書きました。

 寺川俊昭師の言葉を借りれば、汗くささ、男くさい僧房、得度(とくど)ののち何時の日か比叡山に登った親鸞聖人は、やがて比叡山も奥深い横川(よかわ)常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)に身をおき、堂僧を勤める身となっていました。薄暗い堂内、本尊の阿弥陀如来のまわりを念仏しながら、ゆっくりと巡り歩く常行三昧の行、その中に親鸞聖人の青年期は過ぎてゆき、いつしか壮年の身となってゆきます。横川は浄土真宗の七祖の第6祖である源信僧都(げんしんそうず)欣求浄土(ごんぐじょうど)(西方の極楽浄土へ往生することを(ねが)い求めること)の教えが受け伝えられている道場であります。しかし親鸞聖人に欣求浄土の喜びの訪れる日はついになく、またしても、突き当たるものは、炎のように燃えたつ煩悩(ぼんのう)に突き上げられる生身の人間の哀れさであり、見えてくるのは、どす黒い煩悩に押し流される人間の無残さであり、悲しさでありました。行いすまして浄土を見、心をすまして物を見る。願っても努力しても、そんなことは夢のまた夢、こうして親鸞聖人は深いむなしさの中に、次第に学修に、そして人生に疲れていきました。このように精神的にも肉体的にも悩みは深まるばかりでありました。

 親鸞聖人は29歳の春のころ、比叡山での20年にわたる長い学修を捨て、空しい徒労感に責められながら、1人さみしく山を降りて行きました。そして暗闇の中を必死に手さぐりするような思いで京都の六角堂(ろっかくどう)(親鸞聖人が終生にわたり、和国の教主聖徳王と讃仰せられた聖徳太子が創建せられた寺で観音菩薩を本尊とする)を訪ね、100日にもおよぶ参籠(さんろう)(お堂に(こも)ること)に入ったのであります。

 苦しむことの多かった90年の人生を念仏の中に生きぬいた親鸞聖人が、安らかに命終わったあと、その妻・恵信尼(えしんに)さまが、その子・覚信尼(かくしんに)さまに書き送った手紙『恵信尼消息(えしんにしょうそく)』には、

山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて後世の事いのりまうさせたまひける

と書かれています。いま参龍して後世を祈るほかにはなかった親鸞聖人は、その時「現世」すなわち、この人生に光を見失っていたのでありましょう。光を見失った闇の中に、参寵して後世を祈る親鸞聖人は端ぎながら、さ迷っていたのでしょう。その親鸞聖人の胸中には、さまざまな思いが去来したことでありましょう。悲しかった少年時代の日々が、空しかった青年時代の魂の経回(へめぐ)りが、浮かんでは消え、消えては浮かんだことでありましょう。

 辛くて空しい思いがこみあげてきます。参寵する親鸞聖人は、いく夜か独りすすり泣いたことでしょうか、その千々に乱れる思いが参籠の日が1日たち、2日たち、1月たち2月たつうちに、次第に静かになっていきます。その親鸞聖人に、ようやくはっきり見えてきた自分がありました。

煩悩具足(ぐそく)のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる

と『歎異抄(たんにしょう)』に述べられているような、自分をはっきりと見る澄んだ眼を、次第に親鸞聖人は開いてゆかれたのであります。