親鸞聖人の生涯(24)
京都への帰洛1
親鸞聖人が35歳の時に越後の流罪地に送られた時は、聖人は罪人として役人達の厳重な警護のもとでの旅でありました。従って、今に伝わる聖人にまつわる伝承などをたどってゆくと、聖人がどのような道程を、どのようにして旅せられたかは、およそ見当がつきます。それに反して、62・3歳の頃、約20年の歳月を過ごされた東国(関東)の地と、そこに育った多くの門弟たちに別れを告げ京都に帰られたのですが、その行程は私的な旅であり、ただ箱根神社と近江に伝承らしきものが残っているだけで、まったくわかりませんが、多分、東海道を旅せられたことと思います。また旅の同行者についても、一説には聖人の妻である恵信尼さまを始め、越後や東国で生まれた子息達は聖人と別れ、恵信尼さまが生家である三善家より相続した土地を頼って、東国より直接に越後に向かわれたとの説もありますが、今はやはり聖人は家族と一緒に帰洛せられたと思われます。
越後に配流され、ほぼ30年ぶりに帰ってきた京都での聖人は、土地も住居も財産といえるものは何1つとしてなく、その京都では鎌倉幕府により再び念仏禁止令が出され、念仏者に対する迫害が続いていました。そのため、表だった教化も出来にくく、住居も五条西洞院や三条富小路などを転々とされなければなりませんでした。
京都での聖人の生活は、東国の門弟たちからの何百文・何貫文という財施にたよっていました。
護念坊のたよりに、教忍御房より銭二百文、御こころざしのものたまはりて候ふ。さきに念仏のすすめもの、かたがたの御中よりとして、たしかにたまはりて候ひき。(『親鸞聖人御消息』)
等々ということから、東国の門弟から「御こころざしのもの」(個人の懇志)、「念仏のすすめもの」(毎月法然聖人の命日に集って行う「25日の念仏会」に集まった同行たちが拠出した懇志)が届けられていました。このような東国の門弟からの「こころざし」にささえられて「念仏聖」としての聖人の生活は細々と営まれていました。
帰洛後、75歳頃までの12・3年間は、東国ですでに草稿の出来上がっていた浄土真宗の根本聖典である『教行信証』に幾度も手を加え、その完成に全力を注がれたようであります。この『教行信証』は6巻からなり、全文が漢字で書かれた大変難しい書物でありますが、その改訂が一段落すると、次には文字もあまりわからぬ人びとのために、わかりやすい和文の書物を書きはじめられたのであります。
76歳の時は『浄土和讃』『高僧和讃』を作り、83歳の時には『尊号真像銘文』を、85歳になってもなお『一念多念文意』や『正像末和讃』などの数多くの書物を執筆しながら、代わる代わる東国から尋ねてくる門弟に面接し、また念仏生活のありかたや、教義をわかりやすく説明した手紙を出されました。その中で現在残っているものだけでも43通もあります。それらを集めたものが『親鸞聖人御消息』と呼ばれる書簡集であります。