浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

親鸞聖人の生涯(23)

東国への移住7

 親鸞(しんらん)聖人は稲田(いなだ)の地を中心にして毎日忙しく人びとに教えを伝え、法を広めておられましたが、それと共に恐らく聖人は自分が法然(ほうねん)聖人から伝えられた専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを、何とかして後世の人びとにも伝えたかったのではないでしょうか。

 もし聖人が単にその当時の東国(関東)の人びとに教えを広めるだけで終わったならば、それ以後に、この世に生まれてくる多くの人びとは、念仏の教えを()くチャンスが与えられないことになってしまいます。そこで聖人はそれまでに受けてきた念仏の教えを集大成して、後世にそれを残し、だれでもがこの教えの光に浴することが出来るようにしたいと願い、それを書物の形に(あらわ)したのであります。

 その書物こそ浄土真宗で『本典(ほんでん)』と呼ばれるほど尊ばれている『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』6巻であり、この草稿を完成させたのが、この稲田の地でありました。

 この『教行信証』の中には、インド・中国・日本にわたっての念仏について説いている多数の聖典からの文章が引用されており、まさに浄土思想の集大成と言ってもよいほどの書物でありますが、これは単に経典や高僧たちの説を引用しただけのものではなく、聖人自身の深い思想のすべてが含まれていると言ってもよい程の重要な書物であります。

 ちなみに、皆さん、よくご存知の「帰命無量寿如来」で始まる7言1句で120行からなる「正信念仏偈」は、この『教行信証』の「行巻(ぎょうかん)」に含まれています。

 浄土真宗では、この本の草稿が完成したと考えられる1224年を、のちに真宗教団が成立して聖人を開祖と仰ぐようになってから立教開宗の年と定めました。したがって稲田という土地を聖人の遺跡の中でも最も重要な場所の1つとみなしております。

 20年余り東国に住まれた聖人は62・3歳の頃、家族を連れて京都へ帰られました。その帰洛を思い立たれた理由はいろいろの説がありますが、その1つとして次のことが考えられます。即ち『教行信証』を著している最中にも恐らく感じたであろうことは、文献の不足であろうと思われます。流罪にあって京都から越後へと旅し、さらに関東へと移動してきた聖人が、それほど多くの書物を持っていたとは考えられません。したがって書物を著すにあたり、どうしても資料不足になり、そのことが、あらゆる仏教資料の入手が比較的容易であった京都に戻る理由となったと思われます。

 事実、帰洛後から90歳で念仏の息絶え、浄土に往生せられるまでの間に、驚くべきほど多くの書物を執筆しておられます。それは自由に資料を手にすることができるようになった聖人が、後の人びとのために必死になって自己の思想や信仰を残そうとした証拠であるといえると思います。