親鸞聖人の生涯(21)
東国への移住5
親鸞聖人は東国(関東)での約20年を主に常陸国(現 茨城県)の稲田草庵(笠間市)などを拠点として、活動を展開されたのでありますが、阿弥陀仏への信心を説き、呪術を否定する聖人の教えが、東国の農村ですぐさま多くの人たちに受け入れられて、広がったとは思えないのであります。
その第1の理由は、農村の大部分を占める農民に、当時、個人として自由に信仰を選択するのは困難であったからであります。豊作の祈り、虫送り、また疫病退治の祈祷など、生活にまつわる行事の多くが、領主である武士の意向のもとに共同して行なわれていました。信仰に対して勝手なことはできません。信仰と生活とは不可分に結びついていました。領主の意向を無視し、他の村人に逆らって新しい信仰を受け入れる権利を有していたのは武士身分の者たちなのであります。
第2の理由は、聖人が呪術を否定していたことであります。人間を救う力があるのは阿弥陀仏だけです。人間はまったく無力な存在です。救ってほしいと願う心さえ、阿弥陀仏が起こさせてくださるのです。まして人間が人間の病気をなおしたり、安産をさせたり、稲の害虫を追い払ったりなど出来るわけがありません。これが聖人の考えであってみれば、生れて以来呪術にひたって生活してきた人たちが、聖人の説く信仰に違和感を感じても不思議ではありません。
では東国の人びとが次第に聖人に惹きつけられていったのは何故でしょうか。それは阿弥陀仏の救いの教えもさることながら、感謝を教え、人を信ずることを教える聖人の真摯な態度であったと思われます。感謝と信頼、阿弥陀仏への信心と呪術の否定。これが東国の人びとに、如何にも新鮮だったのではないでしょうか。
聖人の門弟たちの名を記した『親鸞聖人門侶交名牒』によれば、聖人の直弟子である面授の弟子のうち、常陸国在住の者が19名の他、下総国4名、下野国5名、武蔵国6名と、この4カ国で8割弱を占めています。それらの門弟の多くは聖人の稲田草庵から30数キロメートル以内の所に住んでいました。これは人間が1日で歩ける距離です。聖人は昼間のうちに目的地まで歩いて行き、仕事が終わった武士たち、農民たちに夜になってから教えを説き、そこに泊めてもらい、朝にはまた自分の草庵に向かって出発するのでありました。ということは聖人は、主に1泊2日の行程の範囲内での活動を行なっていたということになります。
かつて聖人の信者層は武士か農民かという論争があったようでありますが、やはり大部分の農民の信者層の上に、中心となる武士身分の信者層があったと思われます。聖人のもっとも信頼された門弟の横曽根の性信、高田の真仏、鹿島の順信、同じく乗然など各地の念仏集団の指導者は、すべて地方武士の出身であったことは無視しがたいでしょう。各地の武士が指導者であったればこそ、個人として自由に新しい信仰を選び取れる立場になった多くの農民が結集して東国の地に浄土真宗の教団が成立したと思われるのであります。