親鸞聖人の生涯(2)
出家得度
前回は、親鸞聖人が9歳の時、出家得度して名を幼名の松若丸から範宴と改め、僧となられたことを書きましたが、今回はもう少し詳しく書きたいと思います。
本願寺第3代覚如上人の『御伝鈔』によれば、親鸞聖人は幼時に伯父・範綱さまに導かれての出家であったと伝えられていることから考えると、前回でも書きましたが、父・有範さまは何か深い事情で、早くから隠遁しなければならなかったか、それとも、既に死んでおられたか、とにかく、無常の風が吹き荒ぶ家庭であったことは明らかであります。そのような中で9歳の春を迎えたばかりの身で、出家得度を急がれたのであります。
もとより当時の出家をするということは、一方では、現実世界の功名や栄華に勝るとも劣らない栄達の道であり、皇族や貴族の間にも、出家する人は少なくはありませんでした。しかし、親鸞聖人の出家はそのような栄達を望んでのものではなく、多難な前途の待つ出家でありました。すなわち、聖人の父・有範さまの3兄弟、聖人の4兄弟と親子2代の兄弟が、すべて出家遁世した事はまれな事例だと思われます。そこに何か人生の機微にふれた痛ましい事情があったことが充分に窺われます。
このようにして親鸞聖人は9歳の春に無名の僧・道快(後の慈円、慈鎮和尚)の手により、剃髪の座に着かれたのでした。世間的に華々しい将来を約束する何ものもない、その方が、どれだけか古今の宗教史、仏教史にほとんど類例を見ないほどの大きな足跡を残された、のちの親鸞聖人が磨き出されてくるのに役立ったことでしょう。
幼くして、あまりにも人の世の、はかなく頼りない姿を様々と見せつけられた、その限りでは寂しい姿であります。しかし、一方では新発意・範宴(親鸞聖人)の姿からは、まさにかの王宮脱出の悉達多太子(後のお釈迦さま)の雄姿を思い浮かべさせるような威風が流れ出ていたことでしょう。
かれこれする間に、出家得度の挙式の時間が移るのをもどかしく感じられて、青蓮院の庭に散る桜花を眺めながら、「明日ありと思ふ心はあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」の古歌を口ずさんで、剃髪を急がれたとも伝えられていますが、幼い聖人の前途に立ち向かう強い意志を、よく写し出しているといえましょう。