親鸞聖人の生涯(19)
東国への移住3
善光寺を後にされた親鸞聖人の一行は、多分確氷峠を越えて東山道(現在の群馬県安中市~前橋市~太田市付近を通っていた)を東進されて、利根川に沿って下って来た所の佐貫の地に到着されたと思われます。
この佐貫は上野国(現 群馬県)と武蔵国(現 埼玉県)との国境付近と考えられ、現在の群馬県邑楽郡の付近と考えられております。そしてこの地は利根川を主流として支流が枝を張り、「水郷の地」とも呼ばれ、上野国でも名だたる湿地帯でした。
前にも引用しました『恵信尼消息』の第5通に
三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにてよみはじめて四五日ばかりありて、思ひかへしてよませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり。
と有名な「三部経」千部読誦に関する子細を伝える部分があります。これは聖人の東国(関東)入りを告げる数少ない史料の1つとしても知られております。
ここで見落としてはならないことは、この地で聖人が「三部経」を読誦しようとして、それを中止したということであります。そのことは何を物語るのでしょうか。「三部経」とは、言うまでもなく『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』のことですが、その読誦は衆生利益のためだったようです。おそらく住民の生活苦を目の当たりにされたからだと思われます。
この時代は東国では地震が頻発し、大雨や洪水、飢饉による被害が相次いでいました、聖人が佐貫に着かれた1214年夏にも東国の洪水の記述を見ることができます。このような住民の逼迫した状態をご覧になって何とかしてあげたい、救ってあげたいと念じられて、聖人が「三部経」に目を向けられたのは、当時の聖人の心境が那辺にあったかを物語るものといえましょう。
しかしやがて自分のとった行為や考えが間違いであったことに気づかれ反省されました。そのことは「自ら信じ、人に教えて信じさせることが本当の仏恩報謝だと信じているのに、名号を称えるほかに、何の不足で、どうしてお経を読もうとするのだろうかと、4~5日ほどして思い返して読むのを止めて常陸のほうへおいでになった」との恵信尼さまのお手紙が何よりもよく物語っています。
聖人は「衆生利益」という言葉にまどわされて、阿弥陀仏の本願を疑った自分の行動を厳しく反省せられたご様子がこの『恵信尼消息』の叙述を通して、実に迫真的で読む者の心に強く響くものがあります。
この佐貫に滞在されたのが「三部経」を読誦されようとされたこの数日だけだったのか、それとも、その少し前にお着きになっていたものか、明らかではありませんが佐貫にはそれほど長く滞在されなかったことだけは確かなようであります。そして常陸国(現 茨城県)に向かわれます。