親鸞聖人の生涯(17)
東国への移住1
親鸞聖人は、流罪を許されて自由の身になられましたが、京都には帰らず、しばらく当地にとどまりました。それは師の法然聖人が赦免からわずか2ヵ月後に亡くなられて、永らく待ちに待っていた師・法然聖人との再会の夢を失われたことや、信蓮房さまが生まれて1年に満たなかったために、乳児を連れての旅は無理と考えられたためと思われます。しかし、1214年、42歳になると妻子(恵信尼さま33歳、信蓮房さま4歳)と共に、7年間過ごした越後を後に、信濃国(現 長野県)を経て、東国(関東)の常陸国(現 茨城県)に移られました。
「自信教人信」(自ら信じ、人にも教えて信じさせる)善導大師の『往生礼讃』中の文、この言葉の実践こそ聖人はご自分の使命と感じておられ、東国へ向けての行動は、この使命を果たすためだったと思われます。
聖人がなぜ越後から東国に移られたのか、聖人の一生を綴られた覚如上人(本願寺第3代門主)の書かれた『御伝鈔』には、その理由について全く触れられておりません。覚如上人の高弟であった乗専の書かれた『最須敬重絵詞』に、わずかに
事の縁ありて東国にこえ、はじめ常陸国にして専修念仏をすすめたまふ
と漠然と記されているだけであります。それにしても、教化先を北国(北陸や東北)ではなく、東国に求められたのはなぜかが疑問として残ります。
この東国移住の問題については、古来より多くの研究者がいろいろと推理を試みています。
(1)妻・恵信尼さまの実家である三善氏の常陸国における領地を頼ってきたとする説。
(2)聖人の主著である『教行信証』を執筆するためとする説。
(3)常陸国稲田の領主・稲田頼重が招いたとする説。
(4)当時、北国の農民が東国に移住することがあり、その移住に同行したとする説。
(5)聖人が最も尊敬されていた聖徳太子に対する信仰が、特に東国で盛んであったためとする説。
(6)当時は政治的には鎌倉幕府の台頭が東国への新風を吹き込み、源頼朝を頂点とする坂東武士団に権力が移行しつつあり、聖人が歩まれた常陸国近辺は特に程度の高い文化地帯であった。開拓の気風に満ちたこの地こそが新しくて、しかも真実の宗教であるお念仏の教えを受け入れてくれる土地であると判断されたのではないかとの説。
その他、様々の説がありますが、どの説もはっきりとは断定されておりません。そのいくつかが複合して聖人を東国に移住せしめたものと思われます。