浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

親鸞聖人の生涯(16)

流罪9

 親鸞(しんらん)聖人は流罪に処せられて越後(えちご)の地に旅立つ時、『御伝鈔(ごでんしょう)』によれば、

もしわれ配所(はいしょ)におもむかずんば、なにによりてか辺鄙(へんぴ)群類(ぐんるい)(せん。これなほ師教(しきょう)恩致(おんち)なり。

と決意をもって「法難」をも「おかげさま」と転じて味わわれたので、越後での在住の7年間は、それなりの伝道活動はされたことでありましょう。しかし流罪の身であることを考慮すれば、赦免(しゃめん)の後に赴かれた東国(関東)での活動よりは、聖人の門弟たちの名前を記録した『親鸞聖人門侶交名牒(もんりょきょうみょうちょう)』に記されている越後の門弟が、国府在住の覚善(かくぜん)1人であることも、そうしたことを裏付けるものといえましょう。

 聖人にとって7年間の越後時代は厳しい自然の中で苦労の多い日々であったことは間違いありません。だから生活の困窮を通じて、最も救いを求める民衆の実体に迫り得た時代ではなかったかと推察されます。そのことは、仏教がほんのひと握りの知識人のための仏教でしかなかったその時代に、凡愚(ぼんぐ)こそ救いの対象であると唱導された法然(ほうねん)聖人の教えと、その教えに身を投じた自らの行為の確かさを体を通して確かめられた時代でもあったと言えるでしょう。又、師である法然聖人や敬慕された良き先輩・聖覚(しょうかく)法印、隆寛(りゅうかん)律師とも語ることができず、ひたすら法然聖人によって導かれた念仏の教えを自問自答し、あらゆる角度から検討せられた恩索ひとすじの時代であったと思います。

 昼も夜も孤独との戦いであったでしょうし、「無明の闇を照らす光明の書」ともいわれる『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の思索も、この時からだったと思われます。聖人の偉大さはこの時期に一層の飛躍をするわけですが、その聖人を心身ともに支えられ、結婚を通して在家仏教の真意を見い出され、困苦の中にもうるおいのある生活を支えられたのが恵信尼(えしんに)さまでした。

 ついに1211年11月17日、待ちに待った赦免の朗報がもたらされました。京都を後にされて5年、長く暗かった流罪のトンネルを抜けることが出来たのです。お2人は手を取り合って喜ばれたことでしょう。しかも師の法然聖人も京都に帰られるという、二重の喜びです。聖人は師との再会を夢見られたことでしょう。

 ところが翌1212年の新春、1月25日に吉水(よしみず)大谷の住房で法然聖人は80歳の往生をとげられたという、聖人の肺腑(はいふ)をえぐるような知らせがもたらされました。「聖人にだまされて念仏して地獄に落ちようとも後悔しない」とまで傾倒(けいとう)されていたので、そのショックは計り知れなかったでしょう。

 師との再会の夢を失われた聖人は、京都に帰るべきか、このままこの地にとどまるべきか、二者択一の岐路に立たされました。そして熟考の末に決断された道は後者でした。それより東国に移られるまでの間、越後にとどまられたのですが、その理由として、
(1)師のいまさぬ空虚な京都には帰りたくない
(2)師を死にまで追いやった後鳥羽上皇の院政支配が依然として続く故郷・京都の情勢
(3)息男の信蓮房(しんれんぼう)さまはまだ幼児で長旅は無理である
等のことが考えられます。