親鸞聖人の生涯(15)
流罪8
平松令三氏の『親鸞』によれば、
世に名僧とか高僧とか言われて尊敬を集めている人物の中で、親鸞ほど自分のプライバシーについて発言しなかった人は少ないのではあるまいか。自分の生まれた家、父母、あるいは妻子などの私生活については、いっさい口をつぐんだままだった。なにも、とくに黙秘しようとしたわけではあるまいが、ついぞ一言も喋ることはなかった。
親鸞聖人の書かれた多くの書物の中で、わずかに『教行信証』化身土巻の後序といわれる文章の中で、師・法然聖人との出会いや越後への流罪について触れていますが、それはとても私生活というには、ほど遠いものであります。
妻帯した生活での求道が聖人の宗教のトレードマークであるにもかかわらず、結婚については一言も触れることがありませんでした。蓮如上人の子息である実悟師が作った「日野一流系図」によれば聖人と結婚された恵信尼さまは兵部大輔三善為教の娘であると記されていますが、いまだに、その出生については諸説紛々として定説がないようであります。とにかく聖人は越後の地で1人の女性と結婚をし、家庭を持たれたと言われています。その女性が、のちに恵信尼さまと呼ばれるお方であります。聖人より9歳の年下であると自分で言っておられることや、聖人が39歳、恵信尼さまが30歳の3月3日に信蓮房さまが生まれていることから、聖人の流罪後ほどなくして結婚されたと思われます。
恵信尼さまの生家である三善家については、一説では越後の豪族であると言われ、また他の説では、学問を家の仕事とする京都の中級の貴族であり、平安時代の早い時期から諸国の国司の長官(守)や次官(介)を輩出してきた家柄であると言われています。三善為教も恵信尼さまが生まれる4年前まで越後介を勤めたことがあり、また晩年の恵信尼さまは越後に領地を持っていたことなどにより、三善家についての定説もいまだ決まっていないようであります。
『恵信尼消息』(1921年に西本願寺の宝物庫で発見された恵信尼さまが書かれたお手紙で、聖人が亡くなられてのち、恵信尼さまが82歳から87歳までの間に末娘の覚信尼さまに書かれたもの)を拝見するかぎり、恵信尼さまの教養の深さはとても地方豪族の子女が真似出来る程度のものではなく、恵信尼さまは多分京都の生まれか、あるいは九条家に仕えて都暮らしをされたことがあると思われる程に気品と教養を兼ね備えた女性でありました。お2人の家庭生活がどんなに深い尊敬と信頼に満ちた、立派なものであったかは恵信尼さまのお手紙によって目の前に浮かんでくるようであります。