浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

親鸞聖人の生涯(14)

流罪7

 京都を後にして13日目、親鸞(しんらん)聖人は流人の長旅を終え、やっとの思いで流罪の地を目の前にした居多(こた)(はま)に立たれました。低くたれこめる黒雲と、北海に狂う荒波は、そうでなくてもわびしい流刑の身の、旅愁をそそらずにはいませんでした。これからの生活をおもんばかって、はるか西の都、京都を追憶されたことでしょう。そして流罪という逆縁を転じて、僻地の民衆に如来の本願を伝えるという良縁とし、

もしわれ配所(はいしょ)におもむかずんば、なにによりてか辺鄙(へんぴ)群類(ぐんるい)(せん。これなほ師教(しきょう)恩致(おんち)なり。(『御伝鈔(ごでんしょう)』)

と「法難」をも「おかげさま」と転じて味わわれた聖人の「生涯最大の節目」の生活が、いよいよこの日から始まるのです。苦難の幕開けです。

 また、終生の師と仰がれた法然(ほうねん)聖人の訃報に接されたのもこの地です。しかし反面、後世に賢夫人と慕われる恵信尼(えしんに)さまとご結婚された歓喜のご縁もまたこの地でした。流罪の地、越後(えちご)国(現 新潟県)は、このように「光と影」「喜びと悲しみ」が綾を織りなしました。

 では、聖人は越後で一体どのような暮らし、実生活をしておられたのでしょうか。史料は何1つもありませんので当時の庶民の生活ぶりを推察してみました。

 まず住居です。都があった京都ですら、せいぜい間口(まぐち)が1~2(けん)、内部は土間と板間でした。素朴なものですが、越後はもっと殺風景なものだったのでしょう。すなわち、当時の北陸地方の民家は、草()きで、柱に(むしろ)(よし)で囲いをした程度のもので、冬には吹雪の吹きさらしになっていたことが想像されます。

 聖人の落ち着かれた先が「越後国頸城郡司、萩原民部少輔年景が(もと)」、つまり、萩原氏のもとにあったにせよ、あくまで流人としての住まいは、これらの民家とあまりかけ離れた高級なものではなかったと思われます。

 食生活はどうだったのでしょうか。当時の庶民は木の実や海藻などを入れた(かゆ)が主食でした。流人は古代国家の法令である「延喜式(えんぎしき)」によれば、1日に米1升と塩1(しゃく)が与えられるだけでした。しかも翌春からは種籾が給付され、秋の収穫期になると、すべての給付が止められ、自活をしなければなりません。聖人もご自身の生命を維持するために、今まで持ったこともない(くわ)を手にして畑を耕されたことでしょう。

 聖人の住居は「竹之内草庵(たけのうちそうあん)」と呼ばれ、居多ヶ浜のすぐ近くにある五智国分寺にそのご旧跡があります。聖人が此処に居られたのは、ほんの1、2年でした。後の数年は「竹之内草庵」から約500メートル南にある「竹ヶ前草庵(たけがはなそうあん)」(現 本願寺国府別院)でした。草庵は袈裟(けさ)を掛けられたという本堂左側の「袈裟掛けの松」付近にあったと言われています。

 ところが最近、聖人が生活された国府の地が果たして現在の五智国分寺であったかどうか、と疑問視する説が多くなっており、恵信尼さまの生家、三善家の居住地だった現在の上越市板倉区や妙高市新井付近とする頸南(けいなん)地方説が強まっています。頸南地方には、大化の改新によって行われた土地区画の条里制の遺構があるのと、新井に「国賀」、板倉に「国川」、田井に「国分寺」など、国府跡を思わす地名が散在しています。今後の調査、研究を待たねばなりませんが、もし国府が頸南地方だとすれば、聖人の草庵もこの地方との見方が成り立ちます。さすれば聖人と恵信尼さまの出会いも、恵信尼さまのお住まいから遠く離れた五智国分寺よりも、近くの草庵があったため、と見る方がより自然のようにも思われます。