親鸞聖人の生涯(12)
流罪5
現在の福井県鯖江市の「車の道場」を出発せられた親鸞聖人の一行は、どの道を通って越後国(現 新潟県)に向かわれたのでしょうか。
現在でも北陸路の各地には聖人にまつわる伝説が数多く残されていることや、流人の聖人を引き継ぎながら越後国へ送る中継点の加賀国府(現 石川県小松市)と越中国府(現 富山県高岡市伏木)が海岸線にあることを考え合わせると、聖人の一行はやはり海岸線に近い北陸道を通られたと推測されます。
越前国(現 福井県)を過ぎ、加賀国(現 石川県)との境に近い鋸坂(あわら市細呂木、芦原温泉から東に約5キロ)にも聖跡があります。この地まで見送りにきた越前の御同朋たちが、別れを惜しみ立ち去りがたくしている様子を見られた聖人が「音に聞く鋸坂にひきわかれ、身の行くかた方はこころ細呂木」と別れの悲しさを地名の細呂木と鋸坂になぞらえて詠まれたとの伝承があります。
鋸坂を越し海岸線を20数キロ行けば、加賀国の国府があった「安宅の関」跡(小松市)です。ここは奥州に落ちのびる源義経の「歓進帳」で有名な歌舞伎「歓進帳」の舞台です。源義経の「歓進帳」から約20年後に聖人もおそらくこの関所を通られたことでしょう。
さらに東に進みますと手取川に至ります。聖人一行がこの地を通られる頃は雪どけの頃で、川は大変な増水で濁流が渦を巻き、船頭は船を出そうとはしませんでした。そこで聖人は笈から紙と筆を出し「南無阿弥陀仏」の六字名号を書いて川に投げ入れると、たちまち川は静かになり、聖人一行を対岸に送り届けました。この名号が「手取川渡しの名号」といわれ、今も大切に保存されているとの伝承があります。
手取川を渡られた聖人一行は金沢を過ぎ、加賀国と越中国(現 富山県)の国境にある倶利伽羅峠(今を去る800年の昔、木曽義仲が平維盛の軍勢を夜襲をかけて破り破竹の勢いで京都に攻め上ったといわれる)に向かいました。この峠には聖跡はありませんが、地元では「親鸞さまも通られた由緒ある峠」と言っているようです。
峠を越すとやがて、日本海沿いにある越中国の国府の地に出ます。当時は日本海側の港は高句麗や新羅との通商が盛んで、この港も大変に栄えていました。しかし都から遠く離れた地には変わりがなく、都を後にされた、わびしい流人の身の聖人の目は、どのように写っていたでしょうか。