親鸞聖人の生涯(11)
流罪4
前回に書きました近江国(現 滋賀県)と越前国(現 福井県)の国境付近にある愛発山と木ノ芽峠を越えると、後は平坦な平野部を通る北陸街道を親鸞聖人の一行は進まれたと思われます。それを証明するかのように、現在の北陸新幹線に沿った各地には、さまざまな聖人にまつわる伝承が今も残っております。
聖人は流罪地に向かう道中でも、何時も布教活動をされていたようで、現在の越前市武生には、平家と木曽義仲の加賀・篠原の戦いで、白髪を白く染めて出陣した平家の武将・斉藤別当実盛の二男・六郎が、越後に赴く途中の聖人のみ法にふれ、専修念仏の教えに入り、名を祐玄と改めて、一寺を開基したと言われるお寺が現存します。事実とすれば真宗寺院の第1号かもしれません。
続いて鯖江市には「車の道場」があります。「車の道場」とは同市にある真宗誠照寺派の本山・誠照寺(真宗十派の1つ)の別院である上野別堂のことで、誠照寺はここから興ったと「寺史」にはあります。土地の豪族、波多野右京進景之は聖人の通過を聞き、自分の別邸にお迎えして聖人に法話をお願いして熱心に聞法したといいます。
景之は名を空然と改め、聖人から聞法した別邸を道場(真宗寺院の原始形態、あるいは寺院の別名)として、人びとに念仏をすすめる生活にはいりました。この道場を「車の道場」と呼ぶようになったのは、誠照寺の古文書に
ここに聖人、輿をよせ車を止めたまひし由緒を以て世人呼んで車の道場と伝ふ
とあることに由来しているようです。
ここでまた横道にそれて当時の乗物について考えてみることにします。人が罪人として罪地におもむく場合、その人の身分等により多くの交通手段があったと思われますが、下級貴族出身の僧であった聖人がお乗りになったのは「板輿」であったようです。それは「手輿」といって長柄を腰にあて、前と後に3人ずつが担いでいきます。しかし、そのような正式な形で進むのは洛中(京都)だけで、京都を出ると輿の下に車輪をかませ、役人が楽なようにゴロゴロと引っぱりながら行きます。たぶん聖人はそのような乗り物で越後国(現 新潟県)に向かわれたと思われます。当時の越前の人びとには、それが輿というよりは車に見えたのでしょう。このように考えると、先の誠照寺古文書の"聖人、輿をよせ車を止めたまひし"という、一見して矛盾しているように見える言葉も、なるほどと納得できるようであります。