蓮如上人と大阪
昨年7月に、本願寺第8代蓮如上人の500回忌法要を、1998年に迎えるための、懇志上納のお願いをいたしました。皆様には気持ちよく、早速に応じて頂き、現在では本願寺より要請のあった目標額に、殆ど手のとどく所まで参りました。皆様のご協力に心よりお礼を申し上げます。
この蓮如上人は中興の祖といわれるように、宗祖親鸞聖人と並んで、私達の浄土真宗にとって大切なお方であると共に、大阪人にとっても恩人であります。
蓮如上人の『御文章』に
当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや
とあり、「大坂」という地名が最初にあらわれた文献が、この『御文章』だといわれています。
この「大坂」の地名が現在の大阪城のあたりであり、1496年に上人は小さな寺をここに建立されました。当時京都の山科にあった本願寺が、その後、六角定頼と日蓮衆徒らに焼かれたため、本願寺をこの大坂の地に移すことになりました。するとたちまち本願寺を中心として、主に商工業者等の町人による、2000軒をこす家屋の集まった、寺内町という1つの都市が造られました。これが大阪の都市化の最初です。
その後、戦国時代には信長と本願寺は10年におよぶ戦争を繰り広げ、ついに本願寺は退去しました。それから約10年、1591年に、秀吉が京都六条に寺地を寄進して建立せられたのが、今の西本願寺であります。
大阪冬の陣、夏の陣で焼きはらわれた大阪の町が、北御堂(津村別院)、南御堂(難波別院)を中心として復興され、それより商都として繁栄し、今では北と南の両御堂を結ぶ御堂筋が、その動脈として息づいています。
このように蓮如上人は、真宗の流れに浴する私達にとって大切なお方であると共に、今日の商都、国際都市としての大阪の地を最初に見い出された点で、大阪人の偉大な恩人でもあります。