本願寺の歴史(9)
蓮如上人(本願寺第8代宗主)3
蓮如上人が8歳か9歳の頃に、父の存如上人と海老名氏より正妻として迎え入れた如円との間に、すでに異母妹の如祐が生まれているので、その生母が去ったのは、多分、正妻を迎え入れたためであると思われます。いずれにしても蓮如上人は余りにも不幸にして暗い人生の門出をしているのであります。
このように上人は幼少より存如上人の正妻である継母・如円のもとにおいて育てられることとなりました。実子のある継母の、継子に対する態度のほどは十分に推し測ることができます。このようにして、母を求めての上人の出発は極めて暗いものの、宗教者として立つには恵まれていたというべきでありましょう。
先にも述べたように、上人が生まれた当時、本願寺こそ門徒の数も少なく貧困のどん底にありましたが、他の真宗各派は隆盛していました。
まず、当時の仏光寺では坊主即如来という教説を持っていました。現在の知識(坊主、布教者)は、すべて大菩薩の心があらわれたものであり、この坊主の教えによって一念発起し、往生を許された者もまた阿弥陀仏位となることができる、というものであります。そして布教においては、名帳(名簿)に名を記せば、その時において記された者の往生が決定されるという方法をとり、こうして獲得した門徒を強引に組織していきました。その上、この名帳をにぎる坊主は仏光寺教団の正統を継ぐ者のみがのせられる絵系図にその肖像を描かれました。坊主は絵系図に姿をのせられたいと布教に懸命になり、庶民は名帳に自分の名が記されたとたん、その場で約束される往生に魅力をおぼえて門徒となります。このやり方を親鸞聖人の教えにそむくものとして批判する本願寺は、貧しく門徒の数も少なかったのに対し、仏光寺の方は「人民雲霞の如くこれにこぞり耳目を驚かす」という盛況でありました。
また当時の三門徒派という真宗の一派も越前(現 福井県)を中心として、みずから「三門徒おがまずの衆」と称し、一念発起して往生決定の上は、自分が仏となるのだから、ほかの仏像は一切おがまないことを教えるのだから、生きたままその身が仏になる、というところで親鸞聖人の教えとまったく異なっています。それにもかかわらず庶民は現世で仏になれるという魅力によって、これもまた続々と門徒になっていきました。
これらの異端の教説は本願寺の側から見れば許すことのできない誤りにみちていましたが、しかし門徒獲得には有効でありました。門徒の多少が寺院の経済を左右するのだから、何はともあれ、まず門徒を増やさなければならないのです。
そのため、やがて念仏は、それによって病気がなおり裕福になり、しあわせになれるという祈祷に変わっていきました。そのような現世利益を人々は求めていったのであります。実際に世情は甚だしく不安定で、蓮如上人が生まれた頃、足利将軍家では跡目争いなど世情は騒然としており、また全国的に凶作で餓死者があふれ疫病が流行していました。
このような時期に、貧しい飢えた者たちが現世の利益を求めるのは当然で、異端の坊主たちは時代の民衆の渇望にこたえるかたちで、念仏の祈祷化をすすめて行ったのであります。