本願寺の歴史(6)
存如上人(本願寺第7代宗主)
存如上人(1396~1457)は、第6代巧如上人の長男として誕生され、1436年40歳の時、本願寺寺務の譲状を父より受け、それより北陸地方の教化に専念していた父の巧如上人に代わって寺務を取っていたようであります。
存如上人が最初に手がけたのは本願寺の坊舎を整備することでありました。寺務を譲り受けた2年後に上人は御影堂、阿弥陀堂の両堂の建立に取りかかりました。
大谷廟堂に本願寺の号を掲げて以来、堂内には宗祖の影像と並んで阿弥陀仏像を安置していました。この両像並安は東国の門徒との間に物議をかもしてきたので、御影堂と阿弥陀堂の堂舎をそれぞれ別個に営む構想が立てられ、それが実現したのが存如上人の時代であると言われております。
しかも本願寺教線がようやく北陸・近江地方へ進展し始めた状況では、極めて困難な企画でありました。しかも両堂整備当時は全国的な飢餓に見舞われ、さらに兵乱等のため各地の門徒の寄進を得ることが困難で、存如上人は苦労を重ね、かなりの長年月をかけてようやく完成したようであります。このような困難な状況のもとに、どうにか両堂は建立されましたが、その両堂の規模は阿弥陀堂が三間四面、御影堂が五間四面という現在の本願寺とは比べようもない程の小さなものであり、その他の坊舎は整備が行き届かず、女房衆などはどこに住むのかというような状態であったと伝えられております。
親鸞聖人よりこのかた、本願寺の門徒教化は聖教の書写下付・本尊の裏書などによって行われていたことが確認されており、特に存如上人は若き蓮如上人などの協力を得て、この本尊・聖教の授受を強力に推し進められていきました。
このように存如上人は各種の聖教を書写して下付されていますが、その中に『三帖和讃』があります。親鸞聖人の著した『三帖和讃』は初期の本願寺宗主による写本は見られず、存如上人がはじめてのようであります。「和讃」すなわち「うた」は一般の人たちに親しまれてわかりやすく、親鸞聖人が折にふれて念仏のよろこびをうたいあげたのが和讃であり、これを通じて無学の人々にも浄土の教えを理解してもらおうとされました。存如上人がこの和讃による教化を試みた意義は大きいものがあります。
また存如上人筆の「正信偈」が本願寺に保存されています。親鸞聖人の主著『教行信証』の肝要はこの「正信偈」に凝縮されており、「正信偈」を抜き出して書写した上人の着眼の秀抜さを知らされます。
この和讃と正信偈は次代の蓮如上人によって「正信偈和讃」として印刷され、我々真宗門徒の日常に読誦する聖典として、今日に至るまで広く流布することになったのであります。