本願寺の歴史(4)
綽如上人(本願寺第5代宗主)
綽如上人(1350~1393)が父・善如上人の後を受けて法灯を継職されたのは、1389年40歳の時でありました。この頃の本願寺はといえば全く意気あがらず、真宗教団発祥の地である関東および三河等では念仏は盛んでも門徒達は本願寺のある京都には来ることなく、関東の高田派教団に集まり、又京都に本山を置き近畿から中国・四国地域にまで勢力を拡大していた仏光寺派教団におされて発展しあぐんでいました。又近江に木辺派、越前に三門徒派教団が勢力をはり、本願寺教線の伸展を阻害していました。
綽如上人は、このような教団情勢の中で越中国(現 富山県)井波に瑞泉寺を建て、ここを拠点に北陸の教化を試みられました。上人は継職前の30歳頃より諸派勢力の間隙をぬって、当時本願寺に出入りしていた越中国野尻の杉谷の慶善という人を頼って杉谷の地に一宇を建立されて住んでいました。
上人はこの新天地に深い関心をもたれたようであり、継職の翌年には京都の本山を離れ、越中国井波に瑞泉寺を建立するため旅立たれました。上人は博識であり、そのことにより朝廷の信頼もあったので瑞泉寺を勅願寺にすることを許されました。このため近国の武士の協力や、公家・武家の外護を受け、また諸人の浄財を得て寺院造立の志念は早くも翌年頃には達成されたようであります。
上人は瑞泉寺を拠点に近在の教化につとめたようで、井波の南にある越中の秘境である五箇山にも上人にまつわる伝承があります。五箇山の寺に、上人が「かずら籠の渡し」に乗って谷間をわたる絵図があり、上人教化のご苦労を伝えております。この五箇山の「籠の渡し」について『二十四輩巡拝図会』に
この川筋の渡り十一所ありといえども、この五箇山のわたりなん河幅八十間に余り、大綱も高く半空にかかり、渡る最難所なり
とあり、こうした交通不便の地にも綽如上人は親しく教化の歩みを運んだと伝えております。
上人は病弱であったと思われ、上人の書状の中に病身をおして「遼遠の境」に赴いたという言葉があります。この遼遠の地とは北国地方を指すと思われ、この北陸の地へ本願寺教線が伸展しはじめたことは、この後の本願寺宗主も、この地の発展に尽力するところとなり、やがては蓮如上人によって大衆教団として再編され北陸門徒を形成することとなったのであります。
上人は継職の4年後の1393年4月24日(新暦6月12日)に44歳で逝去され、在職はきわめて短期間でしたが、北陸への本願寺教線の伝播は教団発展史上の大きな功績であります。