浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

本願寺の歴史(21)

蓮如上人(本願寺第8代宗主)15

 蓮如(れんにょ)上人の本願寺再興の願いは、寛正の法難によって京都東山大谷を退去してから近畿・北陸の地を転々とする10余年の間、ひと時も念頭を離れなかったのであります。

 1478年、64歳の正月、近江金森(かながもり)の門弟・道西の勧めにより、遂に山城国宇治郡山科(現 京都市山科区)野村西中小路に移られたのであります。この地を選ばれた理由については種々あると思いますが、第1には、東海道にも東山道にも通じる交通の要所にあたり、祖像が安置され参詣者が陸続と絶えない大津に近いことでしょう。また自然的条件としては、山々にとり囲まれた盆地は南に開け、琵琶湖から流れる淀川の上流宇治川が外周をめぐり、淀のあたりで賀茂川をあわせて難波にそそぐこと、舟運も便利で陸路をとれば南の奈良へも近いこと、北陸・東海・畿内南部とひろがった門徒地域の中心に位した要害の盆地であることが選定理由であります。

 もう1つ大切なのは、政治的条件です。野村は土地寄進を申し出た海老名(えびな)五郎左衛門が所有していたとはいえ、興福寺(こうふくじ)と関係の深い三宝院(さんぼういん)が領地権をもっていました。そこで三宝院の了解を得なければなりませんでした。幸いにも当時の三宝院門主・義覚は将軍・足利義政の子で、蓮如上人の四女・妙宗は義政に仕え、左京太夫と号し幕府の申次をしていました。この義政の内室・富子は日野家の出身で、山科に本願寺が建つと訪ねてくるという間柄でありました。このような縁で三宝院領内に本願寺を建てる了解工作がなされたようであります。

 山科に移住後は先ず堺の信証院(しんしょういん)を移建することより始められ、1479年8月には寝殿が建ち、1480年8月には蓮如上人の年来の宿望であった檜皮葺(ひわだぶき)御影堂(ごえいどう)が完成し、1481年6月に阿弥陀堂が大体出来上り、阿弥陀堂の瓦葺その他の諸堂が1483年8月に完成しているのであります。このようにして本願寺200年の歴史にかつて見なかった壮大な伽藍(がらん)が出現し、その後も種々の増改築が行われ、内装も改められました。蓮如上人の没後ではありますが、永正年間に招じられた中納言鷲尾隆康(わしのおたかやす)

寺中広大無辺、荘厳ただ仏国の如し

という言葉を日記『二水記』にとどめています。

 伽藍と平行して本願寺周辺には多数の民家が建ち、寺内町(じないちょう)が構成されました。それは御影堂、阿弥陀堂、寝殿などの主要施設を核に、その外側に内寺内(うちじない)と称する一家衆(いっけしゅう)(本願寺宗主の家族)の屋敷、本願寺や山科に再建された興正寺(こうしょうじ)に勤仕する僧の住坊がありました。さらに内寺内の周辺には外寺内(そとじない)と称する町衆の住居区があり、諸国からの参詣人や寺内町居住者を目当てとする各職種の人たちで繁栄することとなりました。その本寺、内寺内、外寺内の三郭は、それぞれ土居と濠で区画され、いわゆる環濠城塞(かんごうじょうさい)都市を形成していました。