本願寺の歴史(20)
蓮如上人(本願寺第8代宗主)14
吉崎を去って河内国(現 大阪府枚方市)の出口に足をとどめた蓮如上人は、近在の在家門徒・光善の奔走によって建てられた坊舎を、畿内を教化する足場とされたのが、1476年、上人62歳の時であります。
蓮如上人はこの後、なお20数年の寿命を保ったのでありますが、この頃は応仁の大乱も慚く終息しようとした、波の低くなった一時の憩いの時でありました。上人はその当時を回顧して、大内政弘、土岐成頼等の西軍方が郷国へ引上げ、京都は将軍家方のみとなり、平穏となったことを述べ喜んでおります。宗教者である蓮如上人が求めた世界は平和な世界でありました。これまでの波瀾が多かった生涯に比べて京都付近の世態と、その平生さを共にするように、極めて平旦な年月でありました。それは蓮如上人がそれまでの生涯にあったことを整理し、完備する時代でもありました。
1475年より1478年に京都山科に移るまで、蓮如上人は主として淀川南岸の出口御坊に住んでいましたが、1476年頃には川向いの北岸、摂津国(現 大阪府高槻市)富田に御坊ができ、また更に南方の堺にも坊舎ができ、信証院と名づけられています。そのほか、河内国枚方の順興寺、久宝寺村の慈願寺、西証寺(のちの顕証寺)、八尾萱振の恵光寺など上人ゆかりの寺が伝道の拠点となり、摂津国、河内国はもちろん、大和国(現 奈良県)、和泉国の4ヶ国に本願寺の教線が伸張し、多数の人びとが帰依しました。新たに帰依した人の中には真言、天台や禅宗の僧も少なくありませんでした。これらの僧侶の中には、今までの宗旨から十分に脱却できず、浄土真宗の教えを自己流に解釈し、
当流の正義をかたのごとく(定まった教義のとおりに)讃嘆せしむるひとをみては、あながちにこれを偏執(自分の考えに固執)す。…(中略)…わたくしの義をもつて本寺よりのつかひと号して、人をへつらひ(取り入り)虚言をかまへ、ものをとるばかりなり。(『御文章』3帖第12通)
と、真宗の教えを詳しく理解しているようなふりをして、人をたぶらかす者がいると書かれております。
また蓮如上人は、これら異端の僧侶たちが、当時、応仁の乱を避けて摂津国平野(現 大阪市平野区)に本拠地を置き、近畿地方を中心に勢力があった仏光寺門徒に対しても、「名帳」や「絵系図」を用いて、これらに名前を記載すると浄土への往生が約束されたと理解させるような、親鸞聖人の教えと異なる教化を行っていることを批判されました。さらに、吉崎より三河国(現 愛知県)へと伝った異端の教化に対しても注意を払い、親鸞聖人の正統義を懇切に深く伝道されていることが知られます。