浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

本願寺の歴史(18)

蓮如上人(本願寺第8代宗主)12

 蓮如(れんにょ)上人の吉崎(よしざき)での4年間は、上人の85年の生涯で最も輝いた時期でありました。この時代に上人は独自の教化(きょうけ)活動として評価され、またそれ以後の本願寺の伝統ともなった事を、次々と開始されます。それは第1に本尊としての六字名号(ろくじみょうごう)の授与、第2に『御文章(ごぶんしょう)』による教化、第3に寄合(よりあい)(こう))の形成、第4に「正信偈(しょうしんげ)和讃」による勤行(ごんぎょう)の統一といった点であります。

 まず墨書の六字名号の授与は、比叡山(ひえいざん)による本願寺の破却が「無碍光(むげこう)と号する一宗を建立」したという口実でなされたことをうけて、無益の刺激をさけるために今までの無碍光本尊の授与を中止し、白紙に「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」のお名号をご自分で墨書したものへと変更されました。上人は不可思議光も無碍光も、南無阿弥陀仏の徳をほめた名であるから南無阿弥陀仏を本とすべきだと語ったといわれました。こうして書かれた六字名号は、吉崎に訪れた多くの人々に手渡され、持ち帰られ奉懸されたその場所がただちに道場となりました。

 次に『御文章』による教化があります。御文章とは真宗の法語書簡であり、その始源が親鸞(しんらん)聖人にあることは、よく知られているところです。それも吉崎に行かれてから執筆される御文章の数が急速に増加しております。最初の「筆始めの御文章」からの10年間で書かれた御文章がわずか6通しかないのに、吉崎退出までの4年間に約90通に近い御文章を書かれております。この御文章には宗義がきわめて簡潔、明瞭に説かれ、いわゆる「信心正因(しんじんしょういん)称名報恩(しょうみょうほうおん)」の教えが一貫しております。この結果、北陸地方の人々は御文章に説かれる宗義を熱狂的に歓迎し、御文章を受け取った門徒たちが、それぞれの所在で、それを中心とした集まりを持つことで、吉崎に行かなくても蓮如上人の教化にあう機会が生まれたこととなり、蓮如教団は北陸一帯に急速に広がってゆきました。

 この御文章による教化と連動してなされたのが寄合(講)の形成でした。御文章の文字が読めるような村落の指導者層を中心にして寄合がもたれ、真宗の教えを学び、又疑問点が話し合われ、信仰集団が形成されていきました。こうした村落寄合の形成は、当時急速に発達していた農民の自立的な村落形成の動きとあいまって、激しい勢いで北陸の村々に実現されていきました。

 こうした地域ごとの信仰集団の形成は、必然的にみんなで唱える勤行の簡素化と統一とを求めるようになりました。これをうけて蓮如上人は1473年に、それまで別個のものであった「正信偈」と「和讃」(浄土和讃、高僧和讃、正像末(しょうぞうまつ)和讃)を合体させて「正信偈和讃」4帖に編集し開版されました。広く知られているように「正信偈和讃」は、今日の真宗門徒に最も親しまれ、日常の勤行の中心になっております。