本願寺の歴史(17)
蓮如上人(本願寺第8代宗主)11
吉崎の山上には1年もたたないうちに、御堂と多屋が建ち並び、山下には参詣人を目当てに商いをする家も建てられました。こうして吉崎には、みるみるうちに一大宗教都市が出現したのであります。
このような吉崎の繁栄は、蓮如上人にとっては誠に喜ばしいことでしたが、反面憂慮すべき問題も生じてきました。北陸地方では、立山、平泉寺、豊原寺などの天台・修験の山寺をはじめ、諸宗寺院が神経をとがらせはじめ、諸宗僧侶による蓮如上人非難の声が次第に高くなってきました。
他宗だけではなく早くから北陸地方に進出していた高田専修寺の僧も上人非難に加わりました。北陸地方には高田門徒が多く、彼らは称名念仏を重んずる風潮が強くありました。蓮如上人は「念仏ばかり称えても、信心がなければ駄目だ」と信心の欠落した念仏は浄土真宗の教えに反すると信心正因を説き、報恩の念仏をすすめました。
蓮如上人がこうした信心重視の立場をとり、それを強調したよりどころの1つに『本願寺聖人親鸞伝絵』にしるす「信行両座」の物語があったと思われます。この物語は親鸞聖人が法然聖人の許しを得て、信不退と行不退の2つの座を設け、門弟たちにどの座につくべきかを尋ねたという出来事であります。その時、信不退の座に着いたのは、親鸞聖人と信空、聖覚、法力(熊谷直実)だけで、他の門弟たちはいずれの座に着くべきか迷い、態度を明らかにしませんでした。やがて法然聖人も信不退の座に名を連ねたといいます。信不退、行不退というのは、信心で浄土に往生するのか、念仏の行を積んで往生するのか、ということであります。蓮如上人は信心の欠落した念仏、または多く念仏して、その功によって助かろうとする行的念仏の風潮に歯止めをかけ、これを正そうとする意向があったようであります。
そのころ、人々の間には、呪術的効果を期待する念仏が広く行われていました。それには死者の霊魂を慰め、怨霊をしずめる鎮魂の大念仏・百万遍念仏や、農耕儀礼と結びつき、先祖の霊を供養し豊作を願う日待念仏・彼岸念仏などがあり、さらに念仏おどり・念仏狂言のように芸能に結びついた念仏もありました。
もともと親鸞聖人は源信和尚や法然聖人の念仏を、さらに純化し高めましたが、その聖人の念仏を受け継ぐ人々の中にも、自力的、呪術的なとらえ方をする傾向が出てきました。蓮如上人は、こうした真宗念仏の呪術化をとどめようとして、念仏を報恩として位置づけ強調しました。そして上人は、この信心正因・称名報恩の立場こそが、親鸞聖人の真意であると信じて疑わなかったのであります。