浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

本願寺の歴史(14)

蓮如上人(本願寺第8代宗主)8

 門主継職後の蓮如(れんにょ)上人は、それまでの聖教(しょうぎょう)の授与に加えて、新しくお名号(みょうごう)や『御文章(ごぶんしょう)』の授与を始められました。

 蓮如上人は前回でも述べたように、非真宗的であると判断された本尊を排除し、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」といわれて、お名号を本尊とすべきことを強調されました。そして「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の十字名号をご本尊として授与されました。このご本尊は紺色の絹布に金泥の籠文字(かごもじ)で十字名号を書き、それに四十八条の光明を蓮台(れんだい)に添え、お名号の上下に讃文(さんもん)をしるす色紙をはり付けた、きわめて華麗なもので無碍光(むげこう)本尊と称せられました。このご本尊の授与は1459年頃より始まり、その後、近江国(現 滋賀県)野洲南郡中村西道場の西願(さいがん)、同国金森の妙道(みょうどう)、同国山家(やまが)同乗(どうじょう)、その他の多くの近江門徒に相次いで授けられています。

 これらのお名号は道場に安置され、村落の同信の人びとがそこに集結をし、本願寺門徒としての意識を高揚させていったのであります。

 このように隆盛をきわめてゆく近江門徒の地は、ほとんどが天台宗比叡山(ひえいざん)の足下であり、領地でもありました。このような蓮如上人の活動が比叡山を刺激しないわけがありません。比叡山は自己の領地を荒らされる意味よりも、山門にたどってきた歴史の上よりも、経済的目的上よりも黙っていることは出来ませんでした。比叡山衆徒も今のうちに一撃を加えておかねば大事に至るかもしれないと、第一の目標を不逞(ふてい)な動きを日に日に拡大している蓮如の一派に定めていました。

 このような理由により1465年、西塔(比叡山三塔の1つ)の不断経衆は衆会(しゅうえ)を催して、本願寺へ発向(はっこう)することを決議しました。その牒状(ちょうじょう)(断罪)は次のように罪状を指弾しています。

一味は無碍光(むげこう)(阿弥陀仏の別名)を号して一宗を建て、卑賤(ひせん)の愚民を相手に布教し、在々処々に群をなし党を結んで横行している。仏像・経巻を焼き捨て、神々を軽侮(けいぶ)し、破壊と放逸の振舞いは目に余る。これこそ仏敵であり、神敵だ。こらしめねばならぬ。すでにはるか昔に断絶しておくべきところを、青蓮院門跡の口入(くにゅう)(仲介)によって許しを乞うたので猶予したが、近年になってますます増長して止まるところを知らぬ。重犯の罪、見のがしがたい。よって公人(くにん)(延暦寺の寺僧)・犬神人(いぬじんにん)(祇園社の清掃人)を放って坊舎を破却すべし。

 この決議には蓮如上人の活動の実態が見事に捉えられています。以前、青蓮院(しょうれんいん)の仲介によりあやうく発向をまぬがれたのは1352年のことでありました。しかし今度の恫喝(どうかつ)は、ただの恫喝ではすまなかったのです。比叡山の荘園もその時からみれば、さらに荒廃しています。決議の文言はともかく、背後には危機感がうずまいていました。

 本願寺もうすうす気配は察知していました。地方の門徒にもそれとなく知らせていましたが、まさか正月の松の内に決行されようとは予想もしませんでした。9日、150人ほどの祇園感神院(かんじんいん)の犬神人を召しつれた衆徒が来襲し、坊舎を破壊し、財物を奪いとり、そのうえ御堂衆の正珍を蓮如上人と間違えて捕え、引き上げました。あやうく難をまぬがれた蓮如上人は祖像と重宝を金宝寺に移し、善後策を講じることになりました。