浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

本願寺の歴史(13)

蓮如上人(本願寺第8代宗主)7

 蓮如(れんにょ)上人は1449年、35歳の時、父・存如(ぞんにょ)上人に伴われて北陸地方の教化(きょうけ)の旅に出られ、更に東国(関東地方)の親鸞(しんらん)聖人の遺跡を回られています。本願寺留守職(るすしき)には覚如(かくにょ)上人以来の慣習として、東国の祖跡を訪ね、各地の門徒と(よしみ)を新たにする東国旅行が「坂東修行」と名づけられて必須の要件とされてきました。この東国旅行を行ったことにより、存如上人は蓮如上人を後継者と考えておられたことでしょうし、蓮如上人も遺跡巡拝において宗祖をしのびつつ、その法灯を顕彰する決意を固められたことと思われます。

 蓮如上人は叔父の如乗(にょじょう)の強力な尽力により、43歳のとき本願寺第8世を継ぎました。蓮如上人の継職は、後代の門主にみるような伝統法要の形跡さえも残らぬ地道なものでありました。しかし、上人の胸裏には歴代門主のおよびもつかぬ雄大な抱負が秘められていました。乱世の荒れ狂う大波の中に一宗の独立をかならず実現させるという抱負であります。

 蓮如上人が継職後ただちに実行に移したことが2つありました。1つはこれまでの本願寺の姿勢と体質を根底から改革することであり、もう1つは天台宗の末寺として受け継いできた風儀をかなぐり捨て、独自のものを案出することでありました。

 蓮如上人以前の本願寺は威儀を重視する風潮が強くありました。例えば堂内を上下2壇に区切り、仏前の脇に30センチほどに切った竹を積んで置き、法談のとき下壇で眠る人をその竹を投げつけて眼を覚まさせるというような乱暴なことをしていました。上人はこうした伝道姿勢を改めて、上下の区別を廃止し、

身をすてておのおのと同座するをば(平座(ひらざ)にてみなと同座するは)、聖人(親鸞)の仰せにも、四海(全世界)の信心の人はみな兄弟と仰せられたれば、われもその御ことばのごとくなり。(『蓮如上人御一代記聞書』)

と親鸞聖人の御同朋(おんどうぼう)御同行(おんどうぎょう)のお心にそった伝道を行われました。

 また継職までの本願寺には天台宗の本尊や経典が何の不思議もなく並べられていました。天台宗の寺院である青蓮院(しょうれんいん)の末寺としての本願寺であれば、それは当然のことですが、蓮如上人は第一にこの本尊や経典類をすべて取り除き、風呂のたびに焼き捨てて、その風呂湯につかりました。ここにも一宗独立の激しい決意がうかがわれます。

 しかし、仏教徒にとって本尊は礼拝の対象として最も尊敬すべきものであります。「御流にそむく」と称して、これを焼却することは破天荒で大胆至極な行為でありました。親鸞聖人は阿弥陀仏の尊号をあがめることをすすめましたが、他の本尊を排除したり、まして破棄するようなことはしていません。蓮如上人のとった過激な行為に早速比叡山(ひえいざん)の衆徒や同宗旨の高田専修寺(せんじゅじ)から激しい批判の声をあびせられました。そして、ついに比叡山衆徒による本願寺破却という悲劇を招くことになります。

 しかし結果論からすれば、当時の真宗教団にとって、こうした思いきった治療法が効果的であったといえます。この蓮如上人の荒治療によって親鸞聖人の教えは広く人々の手に渡されたからであります。