浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

本願寺の歴史(10)

蓮如上人(本願寺第8代宗主)4

 蓮如(れんにょ)上人は若年の頃は本願寺の極貧に加え、ご継母という、内外ともに厳しい環境の中で、人知れぬ辛労も多く、不遇の幼少期を過ごさなければなりませんでした。上人6歳の冬、生母は「我はここにあるべき身にあらず」といい「聖人の一流を再興したまえ」とさとし、上人の肖像画を胸に抱き、いずこともなく姿を消しました。

 蓮如上人は幼少より勉学にいそしんでいましたが、その勉学の中で当時の時代相をも読み取り、15歳の時に、自らの手で本願寺を興隆させることを決意したのであります。その目標を達するには、隆盛な異端の教説に対する確固たる本願寺派の教説をうちたて、布教の実をあげつつ庶民の願望にこたえなければならないのです。

 そのためには、先ずは得度(とくど)をして僧にならなければなりません。それは17歳の夏の頃でした。先例により権中納言広橋兼郷(ひろはしかねのぶ)(日野家)の猶子(ゆうし)(仮の子)となり、天台宗の門跡寺院である青蓮院(しょうれんいん)で剃髪をうけ、(いみな)兼寿(けんじゅ)、法名を蓮如、法号をのちに信証院(しんしょういん)と称しました。得度の戒師が青蓮院門主であったかどうかはわかりませんが、ともかく天台僧となったことは確かであります。

 蓮如上人は得度をして天台僧になったものの、特に筋だった学匠について天台宗義を学んだ形跡もありません。真宗教義は父、その他の仏教の学問は存覚(ぞんかく)上人以来、真宗学問寺の伝統を持つ常楽台(じょうらくだい)主の叔父・空覚(くうかく)について学んだくらいで、半ば独学でした。

 若い蓮如上人の研究は当然のことに親鸞(しんらん)聖人に向けられ、聖人の主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』によって聖人の思想の全容をとらえようとしました。それの理解のために本願寺派の学僧、存覚上人の著した『六要鈔(ろくようしょう)』を熟読しておられます。また他力について説かれている『安心決定鈔(あんじんけつじょうしょう)』も熟読しました。

 蓮如上人は灯油代にさえ事欠く有様でありました。そういう時、上人は黒木(薪)をたいて灯火代わりにしたり、月夜にはそれさえ節約して月光の光に頼って書見をしたりというほどの困窮ぶりでありました。そのような中で上人は先にあげたもののほか、和讃や和語の著作を中心にして覚如上人の『口伝鈔(くでんしょう)』『改邪鈔(がいじゃしょう)』、唯円(ゆいえん)の『歎異抄(たんにしょう)』などを精読しました。これらの諸書は蓮如上人の『御文章(ごぶんしょう)』にご研鑽(けんさん)のあとが、ありありとあらわれています。中でも『教行信証』や『六要鈔』は表紙が破れるほど、『安心決定鈔』にいたっては7部も読み破ったと言います。

 しかし、上人の勉学は「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」に狙いをしぼっていました。その時分『教行信証』は難解なために通読するものはまれであったことを思えば、上人の精読と簡明な理解は抜群でありました。上人の研鑽は継職後に展開される異安心(いあんじん)(異端の信心)の論破説得に、はかりしれぬ威力を発揮しました。