浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

本願寺の歴史(1)

大谷廟堂

 今回より『本願寺ものがたり』千葉乗隆著、『親鸞聖人と本願寺の歩み』福間光超著等を参考にしながら進めてゆきたいと思います。

 親鸞(しんらん)聖人が弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)に90歳で亡くなられると、翌29日、東山の麓、鳥辺野(とりべの)の南、延仁寺で火葬に付し、翌30日に遺骨を拾い、鳥辺野の北、大谷に墓を築き納骨しました。その墓は「御絵伝(ごえでん)」(聖人のひ孫・覚如(かくにょ)上人の作られた聖人の伝記絵巻)によると、「南無阿弥陀仏」の六字名号をしるした1基の墓塔に柵をめぐらした簡素なものでありました。

 聖人は存命中には1つの寺を建立することもなく、又他宗の祖師のように一宗を開いて教団を作る意志もありませんでした。その聖人の滅後に聖人の簡素な1基の墓塔を出発点とした740年後の本願寺と、その教団の現在の姿を見てみましょう。

 本願寺の広い境内に建てられている壮大な建造物は、聖人の教えの偉大さを象徴するかのようにそそり立っています。この大伽藍とこれを中心に結ばれた大教団は一朝にして形成されたのではありません。聖人滅後10年にして建立された大谷廟堂(おおたにびょうどう)と称する本願寺の前身は、面積わずか144坪、500平方メートルにも足りない狭い土地に建てられた小堂にすぎませんでした。それが現在では真宗に十派ある中で本願寺派本願寺(西本願寺)だけでも109,550平方メートル(33,200坪)の境内地を占め、ここに東西45メートル、南北57メートル、高さ25メートルの阿弥陀堂(本堂)を主軸とする、堂々たる伽藍群を擁する大寺院へと発展しました。また聖人の時代に100名ほどの門弟を中心に結ばれていた念仏集団は寺院数10,400(国内)と180余(国外)、僧侶数35,000余人、門信徒数1,000万人と称する大教団に成長しました。

 聖人の滅後10年目に当たる1272年の冬、かねてより聖人の墓所としては粗末に過ぎると思っていた末娘・覚信尼(かくしんに)や関東の門弟たちは、聖人のご遺徳を顕彰するために廟堂の建立を企画します。そして大谷の西、吉水(よしみず)に住んでいた覚信尼夫妻の屋敷にお堂を建て、ここにお墓を移しました。これを大谷廟堂と称し、その留守職(るすしき)には覚信尼の子孫があたることになり、その子と孫である覚恵(かくえ)、覚如上人が引き継がれました。