お念仏にそだてられる
仏様が「仏を念ぜよ、阿弥陀仏のみ名を称えよ」と言われた通りに、阿弥陀さまのみ名を称えながら生きていくすがたをお念仏といいます。お念仏とは確かに私が称えていますが、しかし私のはからいによって称えているのではありません。阿弥陀さまのはたらきが、私の上にあらわれ出ているのです。それを「如来の行を行じているのだ」と親鸞聖人は見ています。お念仏を称えるということは、お釈迦さまが『大無量寿経』をお説きになっているのと同じ意味を持つのです。『阿弥陀経』をお釈迦さまがお説きになるのも、私が「南無阿弥陀仏」と称えているのも同じ意味を持つのです。だから凡夫の行いで凡夫が行っているけれども「凡夫の行いではなく、仏さまの行を行じているのがお念仏なのだよ」といわれるのです。
道元禅師は座禅のことを「仏作仏行」といわれます。私が座禅を組んで結跏趺坐して瞑想しているすがたと、お釈迦さまが瞑想しているすがたとはまったく同じだといわれます。だから座禅をして悟りを開くというのではなく、座禅をしている相が悟りの相であるといわれます。「座禅をして悟りを開かなければならない」とかけずりまわっていますが、いくらかけずりまわっても悟りにはならないのです。今こうして座禅を組んでいるすがたが仏さまのすがたなのです。そして仏さまが教えられた通りの生き方をすれば、それが悟りの相なのです。
仏となるに、いとやすきみちあり。(『正法眼蔵』生死4-467)
と言っています。言葉を聞いたら簡単に聞こえます。「そうしたら一体どうしたらよいのか」と言うと「仏さまのいわれる通りに生きたらいいのだよ」といわれます。「仏さまのいわれる通りに生きるとは、どうすることなのですか」と聞くと、「朝から晩まで仏さまの教えにしたがって、見るからに仏さまらしい生き方をしなさい。それでいいのだ」といわれます。「それができないので困っています」というと、「それはあなたが弱いのだ」といわれるのです。道元禅師は厳しいかたなのです。最初は「在家も出家も同じように仏になるのだ」と言っています、年がいくにしたがって「在家ではダメだ、やはり出家しなければならない」と言われます。私たちからは厳しい生き方だと見えますが、禅師にとっては「これが楽しいのだ」といわれるのです。
しかし親鸞聖人は難しいことはいわれません。お念仏はまさに「仏作仏行」で「私が称えていても、私の行いではありません。これは仏さまが私のところに来てはたらいているすがたなのです。だから「お念仏は一声一声、仏さまが私をよんでくださる仏さまの喚び声を聞くのだ。そういう思いでお念仏するのだよ」といわれます。だからお念仏は私の行動ではなくて、仏さまの行動が私の上に顕われているのです。だから「念仏は大行であり、真実の行である」といわれ、阿弥陀さまのご本願を信じて、阿弥陀さまのいわれのままにお念仏を称えていくのです。自分の心に任せていたら、段々段々怠ける方に行くのです。
だから自分の心に任せていたらろくなことはありませんから、「自分の心に任せないで、仏様に任せろ」と言われるのです。仏さまの仰せに任せて、その仰せの通りにお念仏しようと勤めていくのです。「勤めたら自力になるではないか」と言うが、これは自力ではありません。一生懸命勤めて「これが仏様のおはからいやったな」と気がついたら、これが他力のはたらきなのです。他力というのは何もしないことではなく、一生懸命ははたらくことなのです。一生懸命はたらいて「俺がやったのだ。俺はあなたと大分違う」というようなことを考えているのはダメなのです。