生死を超える
お釈迦さまは、私がこうして生きていることはかけがえのない事柄であり、その生がやがて死を迎えるということもかけがえのない事柄であり、生も死のどちらも肯定できるような場がないものかと求められました。また、生きている限り老いていくということは、どうしようもない事実であり、ただ虚しく老いていくのではなく、老いを肯定できるよう場はないものかと求められました。さらに、生きている限りどんな病がやってくるかわからないものであり、人生から切り捨てることができない病にも意味を見いだし、病を肯定できるよう場はないものかと求められました。
つまり、お釈迦さまは生・老・病・死をマイナスに捉える考え方を、プラスに転ずることはできないかと発想されました。それが生老病死を超え、さらに愛別離苦(愛するものと別れ離れなければならない苦しみ)・怨憎会苦(憎しむものと会わねばならない苦しみ)・求不得苦(求めても得られない苦しみ)・五蘊盛苦(自分の身と心が思いどおりにならない苦しみ)という四苦八苦を超えていこうと発想されました。
私たちは「死ぬのは仕方がない」と諦めてしまいます。それがダメなのです。なぜ仕方がないのでしょうか。お釈迦さまは「仕方がないことはないのだ」と死に立ち向かっていき、死の壁を打ち破る視点を開こうとしたのです。そして、「生きることも尊いが死ぬことだって尊い」、「生も死もどちらも素晴らしい意味を持っている」、「生も死も一望の下に見通せる」、「生も尊いことならば死も尊い」といえるような心の視野を開こうとされました。これが「生死を超える」ということです。
阿弥陀仏という仏さまは、「本当に疑いなく私の国であるお浄土に生まれることができると思って、お念仏を申して生きてくれ」と願われています。この言葉の中に仏さまの心を聞き開き、自分の本当の相を見いだしていくのです。「お浄土に生まれると思って、お念仏申してくれ」と言われたら、「そう思わせて頂きます」と分からないままに受け入れるのです。すると、仏さまが「私の言うことを聞いてくれたか。あなたは私のかけがえのない仏の子だよ」と仰ってくださいます。この言葉を聞き受けたときに、私がどこでどんな状態であっても、また、阿弥陀さまのことなどすっかり忘れていても、私のことをひとときも忘れず関わり果ててくださる仏さまがいてくださることに気付くのです。そして、この言葉を受けた時、私は本質的には仏さまの子という存在であり、死ぬということはお浄土に生まれることだと示してくださるのです。
私は何者であるか良く分かりませんでした。しかし、この言葉を聞くことにより、私は仏さまの子という存在の意味と、お浄土に向かうという方向性を与えられます。そしてお念仏を申し、お念仏に呼び覚まされながら、人生の様々な出来事に深い意味を味わいながら、生きることは素晴らしいことです。そして、死ぬことは私にとって嫌なことでしょうが、しかし、有り難い世界があるのだと、生と死の両方ともに価値ある世界があることを知らされるのです。お念仏を中心に生きてゆく人生には、生と死を豊かに支えてゆくものに触れてゆくという世界が開かれるのです。
「南無阿弥陀仏」