生死を超える
蓮如上人が初めて『御文章』を書かれたのは、1461年(寛正2年)3月、47歳の時だといわれています。寛正の大飢饉で京都の都大路は餓死者であふれ、鴨川に捨てられた死骸は82,000体以上、水がせき止められ、京都は悪臭でみなぎったといわれています。この年は親鸞聖人200回大遠忌にあたっていました。本願寺を継いで4年目、親鸞聖人一流の再興を志す蓮如上人には心に深く期すものだったでしょう。目の前に飢えで苦しんでいる人を見ながら、自分の家族も飢えで苦しんでいます。為す術もなく、何一つ力になれない無力さを感じられたのでしょう。
「飢えて死ぬ」という悲しい現実から目を背けることはできません。しかし「人間は飢えなくても死ぬ」のです。死の縁は無量です。どんな死に方をするのかわかりません。その避けることのできない死を見据えながら、限りある"いのち"を心豊かに生き、心豊かに死を受け容れていく道が浄土真宗の教えです。阿弥陀さまの大悲の み心を人々の心に届けていくことが、念仏者として生きる道と思い定めていかれました。その心をどんな人でも聞くだけで分かるように伝えていこうとされました。
私たちは「死ぬのは仕方がない」と諦めてしまいます。それがダメなのです。「仕方がないことはないのだ」と死に立ち向かって、死の壁を打ち破っていく視点を開こうとしたのです。そして生きることも尊いが、死ぬことだってありがたいのだといえるような、生も死も一望の下に見通せるような心の視野を開こうとしたのが「生死を超える」ということです。
そして、私にとっては死としか考えられない事柄を、阿弥陀さまは「死ぬのではない。生まれるのだ」といわれました。これは凄い言葉です。私たちはずっと生きてきて、やがて死ぬのだとしか考えられません。それを阿弥陀さまは「あなたにとっては死としか考えられないだろうが、さとりの目から見たら死なんてものはありはしない。生まれるのだと思え」という「往生」という言葉をもって生死を超えさせるのです。
讃岐(香川県)でお念仏を慶ばれた庄松同行の話があります。庄松同行が「あなたの往生は大丈夫か」と聞かれた時に、「俺に聞いても分かるか。俺は知らんわい。俺を助けるか、助けないかは阿弥陀さまに聞いてみろ」と。「阿弥陀さまは、どういっておられる」と聞かれて「助けると仰っている」と答えたといわれています。これが阿弥陀さまの教えで、阿弥陀さまが「助ける」と仰っているのだから、私が助かるのは当たり前だということなのでしょう。
阿弥陀さまの言葉の中に私の生きている意味と方向を知らされるのです。
合掌