真実の行とは 南無阿弥陀仏
真実の行とは、真如にかなった清らかな行いという意味をもっています。『一念多念文意』には
真実功徳と申すは名号なり。一実真如の妙理、円満せるがゆゑに、大宝海にたとへたまふなり。
といわれています。
私たちは毎日、善悪さまざまな「おこない」をしながら生きているわけですが、凡夫であることの悲しみは、いつも自己中心的な妄念に支配されていて、利害・損得の打算がつきまとい、愛と憎しみの煩悩が常にともなっています。それゆえ悪はもちろんのこと、たとえそれが善なる行いであっても、雑毒の善であり、虚仮の行にすぎないと、親鸞聖人は言われました。「雑毒の善」とは、我欲や憎しみや傲慢といった煩悩の毒が雑じっているということです。「虚仮の行」とは、見せかけだけは立派ですが、人目をごまかしているだけの偽善にすぎない行いのことです。それはむしろ人生を攪乱するだけで、愛憎を超えたまことの安らぎをもたらすことなく、生死を超えた涅槃の境地に至ることはできない「そらごと」であり、「たわごと」であるといわれるのです。
それにひきかえ本願の念仏は、私の口にあらわれてはいますが、それは私の営みではなくて、真実な阿弥陀仏の本願力が「南無阿弥陀仏」となって現れ出ているすがただったのです。ですから親鸞聖人は「真実功徳(真実そのものの勝れたはたらき)とは名号である」といわれたのです。名号は、真如の徳の顕現態であると同時に、迷える衆生を念仏の行者に育て上げて、悟りの世界に迎え取ろうと願い立たれた阿弥陀仏の本願力(救済活動)によって、私たちの口にあらわれ、私たちを呼び覚ましている「本願招喚の勅命」だったのです。
このように「南無阿弥陀仏」の称名は如来の真実功徳が私たちの上で躍動しているすがたであるから、真実行といわれるのでした。
利井専妙和上は、そのことを「作即作」といわれています。私たちが称名しているすがたが、そのまま名号の躍動するすがたであり、称名という衆生の動作が、そのまま阿弥陀仏の動作であるような称名が、本願力回向の称名であるというのです。甲斐和里子氏はそのこころを
みほとけの 御名よぶ声は みほとけの われよびます み声なりけり
と詠まれています。
「南無阿弥陀仏」の称名の声となって煩悩の人生の隅々まで響きわたり、私を呼び覚ましつつあるのが阿弥陀さまの具体的なすがたなのです。それゆえ念仏者は、お念仏という大悲の声に包まれながら、悲しみや喜びが交わる生涯を、浄土への旅路といただいて生きるものなのです。
『歎異抄』の後序には
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏ののみぞまことにておはします。
という親鸞聖人の法語が記されています。たしかに念仏は、うそといつわりの満ちた人生を、生死を超え、愛憎を超えて、涅槃の浄土に成仏道に転換し、ほんものの人生に変えていくはたらきをもっています。そのことを「浄土真実の行」といわれたのです。