浄土真宗本願寺派 光寿山 正宣寺

慈悲のお育て

 浄土の救いとは、阿弥陀さまの慈悲の心から起こってきたのです。「慈悲」の「慈」とは、インドの言葉で「マイトリー」と言います。「マイトリー」とは、「純粋な友愛」のことで、「純粋」とはお返しを求めないことです。私たちは人に何かをしてあげると「あのときに、あれだけのことをしてあげたのに」と、すぐにお返しの心が起こってきます。しかし仏様はお返しなしに、相手の幸せをどこまでも願うのです。

 「慈悲」の「悲」とはインドの言葉で「カルナ」といいます。その語源はうめき声から出たのだそうです。うめくほどの痛みを経験した方は、人のうめき声を聞いただけで、「痛いんだな」と相手の痛みに共感します。

 つまり相手の痛み、苦しみが仏様の痛み苦しみになるから、少しでも早くその痛み苦しみから解放して、本当に幸せをなって欲しいと願う心を「慈悲」というのです。

 『涅槃経』に、父を殺してしまった阿闍世の苦しみと、その救いが説かれています。阿闍世は、父を殺し、母を牢獄に押し込め、国を奪い取りました。やがて罪なき父を殺したという後悔の思いから、もだえ苦しむのです。

 その阿闍世にお釈迦様は「われは阿闍世のために涅槃に入らず」というのです。この言葉で阿闍世は、苦しむ自分のために安らかな涅槃に入らず、慈悲をもって苦悩を共にしてくださる方に気づいたのです。

 仏様は、素晴らしい功績があるから救うのではないのです。むしろ仏様に反逆して、自ら痛み苦しんでいる姿こそ、放っておくことができないのです。

 その痛み苦しむ人々に、仏さまは大悲を込めて「我能く汝を護らん」と喚びつづけて下さるのです。

 「南無阿弥陀仏」