お念仏とは
親鸞聖人は、お念仏のことを「本願招喚の勅命」といわれています。つまり「南無阿弥陀仏」というのは、阿弥陀さまが私を招きよびさましつづけている命令であるといわれます。
「招」は「まねく」ということで、私は如来さまから「わが国に生まれよ」と招かれているのです。「喚」を親鸞聖人は「ヨバウ」と読んでいます。「ヨバウ」とは「よぶ」ということで、「ウ」は動作の継続をあらわす助動詞なのです。つまり「南無阿弥陀仏」とお念仏することは、阿弥陀さまが私をよびつづけ、招きつづけている姿なのです。だからお念仏をとなえていることは、阿弥陀さまの仕事なのです。その阿弥陀さまのお仕事を、私が代わってさせていただいて、如来さまのおおせを聞かせてもらっているわけなのです。
この私はなかなか如来さまのいわれを聞こうとしません。その私にどうしても聞かせてやろうというのです。どうしたら私が、一番よく聞くかというと、私が称えて、私が聞けば、一番よいのでしょう。それでお念仏をとなえさせ、本願のおいわれを聞かせていこうとされたわけなのです。
阿弥陀さまはこの私を、本願を疑いなく信じる信心も与え、お念仏もとなえる身にして救うといわれるのです。つまり私が「南無阿弥陀仏」とお念仏していることは、阿弥陀さまの「おさめ取って捨てない」という救いの中にあるのです。「南無阿弥陀仏」とは「必ず救うぞ」という、親の呼び声を聞いていることになるのです。
また親鸞聖人は『正像末和讃』に
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし
というように、「智慧の念仏」とか「信心の智慧」という言葉を使われます。つまり本願を領受するということは智慧がおこることであるといわれたのです。つまり「南無阿弥陀仏」という念仏は、仏様の智慧を頂いていることになるのです。そしてそれが私に至り届いたことを信心といい、信心が智慧であるといわれます。これは非常に大切な意味をもつのです。
つまりお念仏をしていることは阿弥陀様の智慧の領域に連なっているのです。まさに善悪平等の救いというのは、人間の思議を超えた、正に仏智不思議の領域です。私の分別の世界では、善悪平等などということは考えられないのです。賢いものと愚かなものが、同じであるはずがないのです。それを同じだと思ったときには、完全に善悪・賢愚を超えた領域に包まれるのです。
私の分別の世界では生と死は同時に成立しないのです。しかし本願を受け入れたときに、生死を超えた領域に連なっていくということになります。生死を超えた領域に心の眼が開けるわけです。「死ぬのではなくて生まれるのだ」といっていることは大変なことなのです。
本願を疑うことは、仏様の智慧を疑うということなのです。そして人間の思議の領域に留まってしまうから、善悪・賢愚・生死というものが対立してしまうのです。対立している限り、迷いは尽きないといわれるのです。
それを打ち破っていくのが本願の言葉なのです。それが具体的には「南無阿弥陀仏」という名となり、私に阿弥陀様の智慧を与えているのです。そして私を新しく目覚めさせ、私の人生を導いてくれるのです。