如来に救われるもの
生・老・病・死を四苦といわれております。人間である限り絶対に避けることのできない4つの苦しみであります。生は生まれてくる苦しみ、死は死ぬときの苦しみ、だから人生というのは要するに苦の世界なのだといいたいのです。この人生というのはそのままで楽ができるほど結構な世界ではないのだといいたいのです。克服すべき課題として人生はあるのだということです。
あるいはそのほかに"愛別離苦"愛するものと別れなければならない苦しみ、"怨憎会苦"憎しみあうものと会わねばならない苦しみ、"求不得苦"求めて得られない苦しみ、"五蘊盛苦"この激しい欲望に燃え盛る肉体を持って生きてゆくことの苦しみ、この4つを加えますと八苦になります。
人生を苦と感じ、その人生をいかに克服してゆくか、そういう課題を背負いながらいきていく、それが人間の人生なのではないでしょうか。
私たちの苦しみはどこから来るのでしょうか。その苦しみを引きおこすのは、愛と憎しみの心によっておこってくるのです。それをいかに克服するかが問題なのです。
「あの人が悪口を言った」といって腹を立てています。しかし悪口を言うのはそちらの勝手、怒るか怒らないかはこちらの勝手なのです。しかしそうはいきません。きちんとお付き合いをして、一晩中寝られないこともあります。それはこちらが勝手にお付き合いをしているだけなのです。「悪口を言うのはそっちの勝手、怒るか怒らないかはこちらの勝手。だから怒るまい」と決めて、その通りにいけたら幸せで、人を憎むこともないのです。
この愛と憎しみは何処から生まれるのか。要するに自分の都合の良いものに対して愛着の心をおこし、自分の都合の悪いものに対して憎しみをおこすのです。その一番もとは何かといったら、自分の都合のいいようにものを考えていくところに問題があるのです。その自己中心的な妄念によって、愛と憎しみを巻き起こしていくのです。これを煩悩と呼び、その煩悩によって私達はどうしようもない苦しみの世界を描き出していくのです。これが無くなればよいのです。話は分かるのですが、「分かっちゃいるけど止められない」のです。分かっているけれども止められない。死ぬまでこの愛と憎しみを燃やし続ける。これが凡夫の姿なのです。
その煩悩具足の凡夫を救って、清らかな悟りの世界に至らしめようというのが阿弥陀さまのご本願なのです。そのご本願を聞いた時に、私たちはこのどうしようもない自分の重荷を背負って下さる如来さまにであうのです。そしてその時、申し訳ないことだと言うことと、もったいないことだという思いが交錯しながら生きていく。それが念仏の行者なのでしょう。