浄土のみ教えの特徴
浄土の教えの特徴とは、生きているあいだに悟りを開くことのできない人間であると知ることなのです。もっと言い換えると、死ぬまで何が出てくるか分からないのが人間なのです。そういう人間の姿を見すえて浄土教というのは立っているのです。
この世でケリがつくほど立派な人ならば浄土教などはいらないのです。けれども人間は死ぬまで何が出てくるかわかりません。どんなに徳の高い人でも、どんな偉い方でも、縁に遇えば何をするかわからないのです。どんな偉い方でも、何が起こるか分からないのがこの世界なのです。
煩悩をおかさなくなるのは意識がしっかりして、しっかりとコントロールが効いているときなのです。そのコントロールが、どんな状態で効かなくなるかはわかりません。これは自分ではどうしようもないのです。外傷からくる場合もありますし、血管障害からくる場合もあります。アルツハイマーのように急に硬化してしまったらどうしようもありません。今は健全だといっていても危ないものなのです。立派に最後まで遂げられる方もあるかも知れませんが、死ぬまで何が起こるかわからないというのが人間の常なのです。
だから生きている間にケリがついたとは一切言わないのです。生きている間はケリがつかないのが人間なのです。何をしでかすか分からないのです。これが浄土のみ教えの特色なのです。だから危ない身を仏様に委ねるのです。この身をそのままを仏様におまかせをして、そして生きられるように生き、死ねるように死なせていただくのです。そこで
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず
といわれるのです。「老少のひとをえらばない」とは「年を取った時の私も、若い時の私も」といわれるのです。いつでも私は阿弥陀さまの救いの中にあるといわれます。「善悪のひとをえらばない」ということは、善人と悪人はそっちにいるのではないのです。自分の中に善いときと悪いときがあるだけなのです。だから「善悪のひとをえらばない」といわれたときに、私たちはやっと生きられるのです。どんな方でも良いことをいうときはあります。良いことを思うこともあります。みんな良いところがあります。しかし可哀想に「あれさえ言わなければ良かった」「あれさえしなければ良かった」と、大体帳消しにしてしまうのです。
私たちは「善」を見せ「悪」を見せ、その善悪が翻りながら生きていくのです。それをそのままそっくりと引き受けてくれるのが、阿弥陀さまの大悲なのです。