人と畜生
「畜生」とは、「性質が愚鈍で、人に養われていて、人間のように直立歩行をしない生きもののこと」といいます。仏教では「畜生」とは牛や馬のことではないのです。大事なことは「性質が愚鈍である」ということでしょう。「真実の道理を知らない」ということを、仏教では「愚痴」とよんでいます。ものの正しい道理を知らないで、道理を踏みにじって、少しも恥じないような無道な生き方をしているもののことを「畜生」というのです。
それにひきかえ、正しい道理を知り、その道理にしたがって生きようとつとめているものを「人」というのです。つまり人とは「よく考えて行動する、思慮深きもの」のことです。
私たちは、言葉で生活しています。そこで大事なのは、自分のいっている言葉が、相手の心にどんな影響を及ぼすかということ考えて、ものを言わなければなりません。人間というものは、お互いに心の弱いものなのです。チョッとほめられたら嬉しいし、反対に嫌なことを言われたら、腹が立って夜も寝られないこともあります。みんながそのような傷つきやすい、弱い心をもっているのです。
だからこそ自分のなにげない言葉が、相手の心を傷つける可能性が多分にあるのです。よほど配慮していても、つい人を傷つけてしまうのですから、配慮しなかったらどんなことになるか分らないほど、危険な存在が人間なのです。だから思慮深く行動をしようと気をつけて、はじめて「人」になるのです。
親鸞聖人とだいたい同じ頃に、曹洞宗という一宗を開かれた道元禅師は、「ものを言うときは、口の中で三遍言ってから口に出せ」といわれたそうです。それくらいに、言葉を大事にし、配慮されたわけです。私たちも、「相手を痛めつけるようなことを言ってはいないだろうか」と配慮しなければなりません。しかし、申し訳のないことばかりをしているのが実情なのです。しかしその自戒を忘れたら「畜生」になってしまいます。
正しい道理がわかっていないということは、自分がやっていることの過ちがわかりません。過ちがわからなければ、直すすべがありません。そのように正しい道理に目覚め、正しい道理に照らして、自分の行いを反省するときに、はじめて「恥ずかしい」という感情が出てきます。お経には、「恥ずかしい」ということを知っているものを「人」とよぶといわれています。逆に「恥ずかしい」ということを知らないものを「畜生」というと説かれています。
過ちを犯さない人はいません。しかし、その過ちに気づいて、その過ちを恥じ、正していこうとするという思いがあって、はじめて「人」だといわれているのです。