はずかしさを知る
湯川秀樹博士がこんなことをいわれているそうです。
「現在、知られている限りの宇宙間で、どの動物よりももっとも人間が優れていることは確かです。しかし一方から考えると、人間はどの動物にもない恐ろしい残忍性を持っています。トラやライオンが人間を見れば、襲いかかってかみつきます。たしかに恐ろしいけだものに違いありませんが、しかし恐ろしいといっても、それは一対一であって、いっぺんに3人、5人にかみつくことはできません。ところが人間は、わずか一瞬のあいだに、何百万、何千万の人を殺すような、原爆や水爆を考えだしました。これほど恐ろしい残忍性をもったものがどこにありましょうか。それというのも近代科学の発達にくらべて、人間の道徳律が少しも発達していないからです。どうしても道徳律の発達をはからねば、人間の救う道はありませんが、それはあくまで真実の宗教が必要であるといわれています」と。
親鸞聖人のお書きになりました『教行証文類』の「信文類」に、人間を救う二つの真理があるといわれています。一つは慚、二つは愧であるといわれます。その慚愧の心とは何かというと、
慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。
「慚」は「はずかしいこと」だから自分から罪を作らないこと、また「愧」は人に「それははずかしいことだからやめなさい」と教えてあげることであります。
慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。
自分で「恥ずかしい」と気がつくことを「慚」といい、そして「恥ずかしいことをしました、申しわけないことをしました」と他の人に謝る状態を「愧」というのです。また
慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。
人が見ているから恥ずるのではありません。見えないものに対しても恥じていくのです。よく小さい頃にいわれました。「ままちゃんが見てるよ」と。大切なことを見失ってきたような気がします。人と天に恥じていくのが慚愧なのだといわれるのです。
その慚愧によってよく人と名づくのです。この慚愧がなければ人ではない、それを畜生と名づけるのだといわれるのです。しかし犬や猫のことを畜生というのではありません。犬や猫、牛や馬はあの生き方でよいのです。牛や馬には宗教はなくてかまいません。宗教がなくても、そんなにたいして罪をつくらずにいきて生きるのです。
しかし人間は宗教がなかったら、何をするかわかりません。慚愧の心を持たなければどんなことをするか分からないのです。だから人間には宗教が与えられているのです。人間が宗教をもたなかったらブレーキが壊れた自動車に乗っているようなものです。ブレーキのきかない車に乗ったらケガします。自分がケガをするだけではなく、まわりの人も傷つけます。だからブレーキが一番大切なのです。しかしどうもこの頃は、ブレーキがきかない人間が多くなり、非常に危険な状態なのでしょう。
そこで慚愧あるもの、また人に慚愧を生ぜしめるものが仏法なのです。はずかしさを知るから、煩悩にブレーキがかかってくれるのです。昔の人は「はずかしさを知らない人間は、はじをかいたためしがない」と。