仏縁にあわせてくれた父の思い出
6月17日は、実家の父の祥月命日です。85歳でお浄土に往ってから、はや12年にもなりますが、苦しい病の中、臨終まで「なもあみだぶつ」を忘れず、仏縁をよろこぶ生活をしていました。
存命中の父は、口かずが少なくやさしい人でしたが、私たち子どもが物心ついた頃から、朝夕の礼拝だけはきびしく言われました。夜、家族がそろっている時は「お正信偈」や「阿弥陀経」を勤めるのですが、朝が大変です。寝坊をして、おまいりをしないで食卓に着くと、ご飯はありません。そして「お礼をしてきなさい」と。
私の田舎では、お仏壇におまいりすることを「お礼をする」と言います。なぜなら、お仏壇は仏さまに報恩感謝する所だからです。よそからお菓子などを頂戴すると、まずお仏壇にお供えしてから、母が私たち子どもに等分に分け与えてくださいました。
余談になりましたが、父の「お礼をしてきなさい」の一言で、私と2才年上の姉はお仏壇の前に飛んでいき、「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて…」と「領解文」を唱えるのです。毎日のことですから、暗記はしているものの何のことだかさっぱり解りません。でも、時々うそを言っておまいりをしない日は、なんとなく後ろめたい気がしたものです。
成人してから、この「領解文」は浄土真宗の教えを短い文章でわかりやすく表したものだと解ったとき、改めて仏縁にあわせて下さった父のきびしさを、ありがたく思いました。在家で生まれ育った私が住職と結婚した時、一番よろこんだのも父でした。
念仏の道場である、如来さまのおひざ元で生活させていただくことを幸せに思っています。善知識となって私を育ててくださった父の気持ちが、今ごろになってわかるなんて、おはずかしいことです。