あたりまえ
過日、友達が2人相次いで入院されました。普段からお元気で病気とはあまり縁のなかった彼女たちだったのでびっくりしました。見舞ったとき、「お互いに年だからね」と冗談を言ったものの、主婦が入院することは、どんなに大変なことか。私も何度か入院をして、家族に心配や迷惑をかけただけによくわかります。
ある日、突然に妻が、母が、嫁が入院をすることになったら、家族はただオロオロするばかりで、どうしていいかわからなくなってしまうのではないでしょうか。これは、いつもの生活を「あたりまえ」と思っていたことが「あたりまえ」ではなくなってしまうからです。
反対に主婦の側からみると、元気で働いていたのが「あたりまえ」であって、毎日忙しい思いをしていると、時には病気になって入院でもしたら、家族から解放され、ゆっくりできるのではないかと思い上がった考え方をおこし、さて病気になってみると、元気で働いていたことが「あたりまえ」でなかったことに気づかされるのです。
特に近ごろの科学の進歩や、文明の発達、又物質の豊かさの中で暮らしていると、毎目の便利な生活を「あたりまえ」として、すべてのものに対する感謝の気持ちがうすれているように思われてなりません。
私たちは、自分だけの力だけでは生きることはできないのです。すべての人や、ものに支えられ助け合って生かされていることを忘れると、なんでもが「あたりまえ」になってしまいます。そして何かに直面するとオロオロして、感謝どころか愚痴をこぼすしかできないのです。
如来さまは、こんな姿の私たちを見抜かれて、お念仏に目ざめさせようと休みなく働きかけて下さっています。お念仏に遇わせていただくことは、生かされている事実に気づき、「あたりまえ」が「おかげさま」に転じられることなのです。
「あたりまえ」が「おかげさま」と心から思えるような日暮らしを心がけたいものです。
なもあみだぶつ